過去の説教

神の恵みの業

神の恵みの業
大坪章美

コリントの信徒への手紙二 4章7-16節

預言者イザヤが60章で語った預言は、捕らわれの地バビロンから、故郷エルサレムへ戻っては来たものの、様々な困難に直面せざるを得なかったイスラエルの民への希望の言葉でありました。これまで、イスラエルの民は、諸国の王から異邦人たちから、言葉では表し得ようもない程、辛酸をなめさせられてきました。

それが、今や逆転するというのです。10節では、「異邦の人々があなたの城壁を築き、その王たちはあなたに仕える」と預言されています。そして、続く言葉によって、その逆転の背景には、明らかに、主なる神ヤハウェのご意志が働いていることが分かるのです。そこには、「わたしは怒ってあなたを打ったが、今、あなたを憐れむことを喜ぶ」との、主なる神の言葉が、イザヤの口を通して語られているのです。イスラエルを苦しめた諸国の王たちの子らも、身をかがめてやってきて、神殿の前にひれ伏し、「主の都、イスラエルの聖なる神のシオン」と、エルサレムを讃えるであろうと、預言するのです。エルサレムの統治体制についても、預言は続きます。主なる神は、「わたしがあなたに与える命令は平和。あなたを支配するものは、恵みの業」と語られます。これまで、イスラエルを統治していたバビロンの監督者に代わって、これからは平和が治める、という預言です。また、神は、イスラエルの民の救いについても、預言されました。「あなたを支配するものは、恵みの業」と言われたのです。神の恵みの業が、イスラエル全土を支配すると言われるのです。

このイザヤの預言からおよそ600年も後の紀元56年の秋頃のことでした。パウロは、その時、マケドニアに滞在しており、コリントの信徒への手紙?を認めていました。パウロは、自らが建てたコリントの集会の人々に書き送ります。7節です、「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と記しています。パウロが言う、「このような宝」とは、直前6節で語った、「神の栄光の知識」を指しています。「土の器」とは、イエス様の弟子であり、パウロ自身でもあります。私たち、イエス様を主と信じる者たちの中に納められた「宝」は、とてつもなく大きなものであることが分かります。これは、「私たち、イエス様を主と信じる者たちの心の内に、“新しく創造された者”、言い換えますと“内なる人”を創造されたのだ」と教えているのです。そして、この私たちの心の内に創造された“内なる人”が、如何にとてつもなく大きいものであるか、をパウロは、7節以下に記しているのです。私たちは、土から造られた弱い存在でありますが、どのような局面に陥っても、立ち上がることができます。人間の弱さを考えた場合、不可能にも思われることにも耐え忍んで、目標を得ることが出来るのです。なぜ、そんなことが出来るのでしょうか。それは、私たち、土の器、脆い自分自身の力に依り頼むことなく、内なる人、新しく創造された人、に負っているからなのです。主なる神様は、私たちが自分自身の限界を弁え、主なる神に絶えず目を向ける時にこそ、内なる人の力が発揮される、と仰るのです。パウロは15節で、これらの恵みを総括します。「すべて、これらのことは、あなたがたのためであり、多くの人が豊かに恵みを受けるため」と記されています。「すべて、これらのこと」というのは、日常生活の上で、私たちが経験するすべてのことを指します。嬉しい事、楽しい事ばかりがある訳ではありません。苦しく、困難なこともありますが、これらすべてが益となる、と言っています。これらのパウロの言葉、「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて、神に栄光を帰すようになる」という神を讃える言葉の中に、私達は、イザヤ書の預言の成就を見ることができます。イザヤは、60:17において、イスラエルの民の歩みについて、主の言葉を語っています、「わたしがあなたに与える命令は平和、あなたを支配するものは恵みの業」と預言しました。まさに、パウロが、コリントの集会に宛てて書き記した手紙の中に、私達は、この預言の成就を見るのであります。私達も、この一週間、私達を支配される主の、恵みの御業のもとに歩みたいと願います。

アーカイブ