過去の説教

主の憐れみに生きる

主の憐れみに生きる
北広島教会牧師 加藤孔二

 

アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

ルカによる福音書 16章31節

私たち人間が生きるとき、さまざまな形で問われることは、死をどのように受けとめるかということです。この問いは、宗教の教えは異なっても、そこに現れている共通の考えは、幸いな死後の世界と、そこから落ちたものの世界があるということです。しかし聖書がそのことについて語っている所は本当に少ないのです。その珍しい主の言葉が記されているのが今日の箇所です。けれどもここで注意をしなければならないのは、天国、陰府、死後の世界がどういうところなのかだけに注目して読むなら、ここにある主イエスの御心を読み違えることとなります。主イエスはこのたとえを用いて、ただ地上で貧しい人が死後には豊かな生活をし、金持ちであった人がひどい目にあったということを語っているのではありません。そこから先の話をしています。金持ちが死んで、葬られ、陰府にいって、苦しみながら目をあげると「アブラハムとラザロとが、はるかかなたに見えた」のです。金持ちは、人生とはこの世のことだけだと思っていたが、しかしこの世を超えた世界がありました。そして今炎の中でもだえ苦しんでいます。この金持ちは地上にいる父や兄弟たちのことが心配になりました。そこでアブラハムに「わたしの父親の家にラザロを遣わしてください」と頼みました。アブラハムは答えました。「おまえの兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。しかし金持ちも食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだものの中から誰かが兄弟のところに言ってやれば、悔い改めるでしょう」と。それにアブラハムはすぐに答え「もしモーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、そのいうことを聞き入れはしないだろう」といって突っぱねたのです。16章17節に「しかし、律法の文字の一角がなくなるよりは、天地の消え失せる方がやさしい」と記されています。これは今日の御言葉の前に記されている主イエスのお言葉です。すでに語られている神の言葉だけで十分なのです。しかしそれを聞いて生きる人々が繰り返し語られる御言葉を聞かなかったのです。なぜその言葉を聞かなかったのでしょうか。19節に「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を来て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。この遊び暮らしているその傍らに、貧しい人がいました。ラザロです。金持ちはラザロが玄関のところにいるのを拒否してはいません。そしてラザロは食卓から落ちるもので飢えをしのいでいました。金持ちは死後、陰府に下り、見上げるとはるかかなたにアブラハムの懐に抱かれたラザロを認識します。なぜここで金持ちが陰府に行ったのか、またラザロはアブラハムの懐に入ることができたのでしょうか。ここで主イエスが貧しい人にラザロという名前をつけられたことに注目したいと思います。ラザロという名前は「神は助ける」という意味です。ラザロはただ神の憐れみによって生きていました。そのラザロを金持ちは、金持ちにふさわしい思いを持って、玄関先におき、パンくずを与えていました。そのくらいの情を持っていたのです。この御言葉で主が私たちに語りかけようとしている本質は、ラザロは神の憐れみによってのみ生きていた。そのことをこの金持ちは無視したのです。神の憐れみによってのみ生かされていることを忘れたとき、それが起こるのです。たとえラザロと同じような境遇にあったとしてもです。神の憐れみは、生きているときだけの憐れみではなく、死ぬときにも、神の憐れみが私たちをとらえ、生かし、慰めるのです。

最後に主はこういわれました。「たとえ死者の中から生き返るものがあっても、そのいうことを聞き入れはしないだろう」と。聖書の言葉だけ与えられてもそのことを聞かない人にとっては、甦って死の真相を告げたとしても、役に立たないだろうというのです。しかし主はやがて甦らえらました。そのことによって私たちがこの御言葉を読むときに、復活という確かな希望の光の中で、望みを持って読むことが出来る道を開いてくださったのです。

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