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御子の似姿

御子の似姿
大坪章美

ローマの信徒への手紙 8章22-29節

詩編6篇の作者は、苦しみ、嘆きの中にいました。3節後半に、次のようにあります、「主よ、癒して下さい。わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています」。彼は、心に憂いを抱えているのです。何故なら、彼は、自らが犯した罪を自覚しており、その罪のために、神様からの処罰を受けるべき身であることを理解しているからです。彼は、差し迫った“死”の問題にまで、考えを巡らせ始めます、「あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください」との祈りが捧げられます。人々は、神様の救いの事実を、この世の出来事として見ようと願っているのです。それは、次に続く、6節で明らかになります。そこには、「死の国へ行けば、誰もあなたの名を唱えず、陰府に入れば、誰もあなたに感謝を捧げません」と記されています。人々は、神様の救いも、恵みも、この世の出来事の中で実現することを求めているのです。この世の“生”つまり、此岸の命が終わり、“死”が訪れると、神様と人との間の一切の関係は断たれてしまうのだと、信じていたのです。ところが、7節で、「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」と歌い、解決できない限界に悩むこの詩編作者には考えも及ばなかった、人間に対する大いなる希望の光が射しこんだのです。それが、イエス・キリストの誕生と死、そして復活でした。イエス様は、罪を知らない神の御子であったにも係わらず、私たち人間の罪を全てその身に負われて十字架に付けられ、御自ら、罪の代償であった“死”を完全に滅ぼして下さったのです。人間に永遠の生命を与えて下さったのです。人間の命はこの世で終るのではなく、復活の命を生きる希望を与えて下さったのです。パウロは、ローマの信徒への手紙8:20節で記しています、「被造物は、虚無に服していますが、それは自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています」と。つまり、イエス様が再び来られる再臨の時の圧倒的な栄光に比べれば、キリストのご受難を、共に苦しむことなど、取るに足りない、いえ、むしろ、この現在の苦しみこそが、来るべき主イエスのご栄光に与ることの実質的な保証である、とまで、言い切っているのです。パウロは、24節以下に記しています。私たちは、既に救われている身ではありますが、未だ、私たちの希望であります、「信じる者たちの身に起きる栄光の出来事」を、見たことはないのです。パウロは、言っています、「見えるものに対する希望は、希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか」と。私たち、イエス・キリストを信じる者たち、ひとりひとりの体には、“聖霊”が与えられています。この、聖霊が、神様からの保証なのです。私たちは、神様からの保証を頂きながら、現在の困難や苦しみを経験しているのです。神の霊は、神様の御心をご存知です。神の霊が、私たちの心の中で、弱り切った私たちに代わって、救いを求めて祈って下さるのです。この祈りが、聞かれずに終わることは、あり得ないのです。私たちを、ご計画の中に置いて下さる神様は、私たちが経験するすべてのことを、ご計画の中で、益となるように働かせて下さるのです。今、私たちが経験している困難を、放棄してはいけないのです。それらは、すべて、将来の益となるように、働かせて下さるからです。こうして、来るべきキリストの再臨の日に向けて、私たちの経験するすべてのことが、私たちの救いのために、益となって働き、備えられます。そして、救いが完成するとき、私達の姿が、どのような形になるのか。パウロは、29節において語っています、「神は、前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似た者にしようと定められました」と。キリスト再臨の時に、私たちキリスト者が、御子イエス・キリストに似た者とされるのは、復活と栄光の初穂となられた主イエスを神さまの長子、つまり長男として、後に続く復活のキリスト者たち、兄弟姉妹をその神の家族として、交わりの中に入れて下さるからです。私たち、今、この時代を生きるキリスト者たちは、このような大きな希望を前にして、歩んでいるのです。

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