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アブラハムのふところ

アブラハムのふところ
大坪章美

ルカによる福音書 6章19-31節

イエスさまは、弟子たちと、エルサレムへ上る道を歩いておられましたが、大勢の群集が付き従っていました。群集の中には、ファリサイ派の人々や、律法学者たちがいました。彼等はイエスさまに議論を吹きかけて、権威を失墜させようという目的を持っていたのです。このようなファリサイ派の人々の無理解を、イエスさまは指摘されます。彼等は、自分たちが律法の番人だと、思い上がっていますから、自分たちは懐手をして、ただ、旧約聖書を研究し、律法を他人に守らせれば、それで、神の国へ入れるものと、安易に考えていたのです。金持ちとラザロの譬え話をお話しになったのも、このような、ファリサイ派の人々の“安易な考え”に気付かせることが目的でありました。イエスさまは、2人の人物を登場させます。ひとりは、“ある金持ち”です。その金持ちは、紫の上着と、細布の下着を着て、生涯の間、毎日、贅沢な暮らしをしていました。一方で、この金持ちの邸宅の門の前に、ラザロという、体中、腫れ物で覆われた貧しい人が横たわっていた、と言うのです。このラザロは、金持ちの食卓から落ちる食べ残しの屑ででも、飢えを満たしたかったのですが、それも叶いませんでした。しかし、茲に、この2人の境遇が一変する出来事が起こります、「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって、宴席に居るアブラハムの、すぐ側に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた」と記されています。

人は死ぬと、イエスさまの再臨までの時を、陰府で過ごしますが、ラザロが過ごす場所は、“アブラハムのふところ”と呼ばれているところでした。彼が生きていたとき毎日を過ごしていた、金持ちの邸宅の門前の冷たい石道に比べて、なんと、温もりのある、心地よい場所であったことでしょう。何故、ラザロは、“アブラハムのふところ”に迎え入れられたのでしょうか。何の仕事もできず、人々から蔑まれ、捨て置かれたラザロは、金持ちを恨むことも無く、自分の運命を嘆かず、ただ、死んだ後は、自分を受け入れてくれるところがある、ということだけを信じて、平安な毎日を過ごしていたのです。このような魂を、イエスさまは、深い愛と、同情とで、救って下さるのです。

そして、間もなく、この金持ちも死にました。燃え盛り、焼き尽くす渇きの中で、この金持ちは、目を上げてあたりを見回すと、はるかかなたの宴席で、アブラハムと、その懐に憩っているラザロの姿を見つけたので、大声で叫んだのです。「父、アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」。

しかし、アブラハムは、この金持ちの願いを拒否します、「子よ、お前は、生きている間に、良いものを貰っていたが、ラザロは反対に、悪いものを貰っていた。今は、ここで、彼は認められ、お前は悶え苦しむのだ」。それから、更に言葉を続けて、地上に生きていた時の生き方と、心の持ち方とで、その人の魂が、死後、終末までの時を過ごす場所が決まってしまうと教えるのです。流石の、この金持ちも、自分が“アブラハムのふところ”へ移ることは、諦めざるを得ませんでした。しかし、この金持ちは、この世に5人の兄弟が居るので、彼らのところにラザロを遣わして、地獄の苦しみを味わわないように、言い聞かせてくれるようにと懇願するのです。アブラハムは首を横に振り、次のように言いました。「お前の兄弟たちには、モーセと預言者が居る。彼らに耳を傾けるがよい」。この金持ちは、重ねて言います、「もし死んだ者の中から、誰かが兄弟のところに行ってやれば悔い改めるでしょう」。この要求をアブラハムは拒否します、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言う事を聞き入れはしないだろう」。然しイエスさまが、この金持ちとラザロの話しをファリサイ派の人々に向かって語られたということは、未だ彼らにも、“アブラハムのふところ”で憩うチャンスがあった事を示しています。陰府の地獄で苦しむこの金持ちが本当に気付くべきであったのは「生きている時に“神を畏れる心”を持つべきであった」という事でした。

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