神への従順があなたを救う
大坪章美
フィリピの信徒への手紙 2章12-18節
時代は紀元54年の秋頃、パウロはテモテと共に第三次伝道旅行の途上にありました。彼らがエフェソの町へ辿り着いた時、富の象徴でもあるアルテミス神殿の銀細工職人だちとの争いに巻き込まれ、パウロ自身も牢獄に繋がれるという状況に陥ってしまったのです。
このパウロの身に起こった一大事を、いち早く耳にしたのがフィリピの教会の信徒たちでした。フィリピの教会の信徒たちは、親身になって牢に繋がれたパウロの身を案じました。そして、信徒ひとりひとりがお金や見舞いの品を持ち寄り、パウロを慰問するために、教会を代表してエパフロディトに持たせ、エフェソの獄中のパウロに届けさせたのでした。
従って、このフィリピの信徒への手紙が認められたひとつの目的は、フィリピの教会からの慰問の贈り物を受け取ったパウロが、教会の信徒たちへ、感謝の気持ちを書き送ることでありました。
然し、この際、パウロには、どうしてもフィリピの信徒へ書き送りたい用件がありました。と言いますのはパフィリピの教会に、ユダヤ人キリスト者である巡回伝道者が入り込んで、フィリピの信徒たちが脅されている」と知らせてくれる者がいたのです。その巡回伝道者たちは、“割礼と律法だけを守ることにより、自分たちは既に[完全な者]になっている”と考えて、
“私たち、人間の罪を贖うために、キリストは十字架に架かられた”ということを否定する者たちでありました。彼らの考えによれば、“悔い改め”も“罪の赦しも、“イエスさまの十字架の死”さえも、無駄なものになってしまいます。パウロは、これらのユダヤ人キリスト者たちに、フィリピの信徒たちが脅され、教会の一致が乱されることを、最も恐れ、気に病んでいたのでありました。
パウロは、フィリピの信徒たちへ慰問の品への御礼の言葉を書き記すと共に、フィリピの信徒たちが、「きりストヘの反対者たちに怯え、たじろぐことなく、一致して福音のために戦うように」との、勧めの言葉を付け加えることにしたのでありました。
パウロは、共同体が一つの心になって、ユダヤ人キリスト者だちと戦うために最も大切なこととして、“へりくだる心”を勧めます。さらに8節では、キリスト賛歌を引用して「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした」と歌うのです。
そして、12節では、「わたしが共にいるときだけでなく、いない今は、なおさら従順でいて」と、自らの殉教を仄めかしてまで、“神への従順”の大切さを説いているのです。何故なら、“神様へ従順であること”は、反対者たちが主張する“ユダヤ人キリスト者は、割礼と律法を守ることにより、既に完全なものになっている。異邦人キリスト者も、律法に従うべきである”という「滅びに至る考え」とは,180度異なる、「救いの道」であるからであります。パウロは、「ただ、イエス・キリストに従順でありさえすれば、自分の救いは達成される」と勧めているのです。
救われるのに、人間の側からの努力は存在しません。ただ、「神が、恵みの御心として与えて下さるものを、人間が信仰をもって受け取る」という流れがあるだけであり、神は、その働きかけを、“恵みの選び”に従って、行われるのであります。
パウロは、フィリピの教会の信徒たちが、神の前に礼拝を捧げる場面を想起します。そして、この礼拝によって、フィリピの教会の信徒たちが、ユダヤ人キリスト者である巡回伝道者の誤った信仰に影響されることなく、“神への従順”を聖なる供え物として捧げる時に、たとえ自分の殉教の血が灌祭として祭壇に注がれることになっても、喜んでいる、と言うのです。何を喜んでいるか、と言いますと、フィリピの人々が、神への従順を貫くことによって、自分の救いを達成することを喜んでいるのです。
パウロが、自らの死を目の前にして、なおフィリピの信徒たちへ書き送った神への従順”、私たちも、この言葉を大切にして、日々歩みたいと思います。