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福音にふさわしく

福音にふさわしく
土橋 修

フィリピの信徒への手紙1;27〜30

 数多いパウロの手紙の中で「獄中書簡」と呼ばれる四書のうちの一つが、本書「フィリピ書」です。彼は宣教30年余の間、苦労の程は数知れず、「投獄されたことずっと多く(コリント2:23-30)」と語っています。少なくともエフェソ・カイゼリヤ・そして最後はローマとなりました。本書はそのローマでの最後のものです。

 ところがその内容は、獄中書簡にふさわしからぬ「喜びの書簡」と評されています。「喜び喜べ」のメッセージに満たされているからです。「パウロの書いた最も美しい手紙」と呼ばれる所以がここにあります。その喜びの源は「キリスト・イエスに結ばれている」ことを誇りとする(1:20)、フィリピ教会の「主に在なる交わり」の証に発するものなのです。

 27節「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」のすすめは、彼らの信仰生活を見るにつけ、パウロも喜び頷きながら、このように励まし、すすめているのです。日常的には当時の人々は、ローマの一市民ならんと心掛けていたことでしょう。しかしそれに替えて、クリスチャンとしての信仰の立場からパウロは明確にキリストの福音に生きる者として、即ち神の国の一市民として、それに似合った振る舞いがあって然るべし、とアピールしたのです。

 同じ市民での、根本的な切り替え要求なのです。表面的な変え方でなく、いずれ元に帰るというものでもなく、代理的な方法でもない。全く新しく入れ替わる決意の表明を求める変え方が、凛として要求されるのです。

「福音にふさわしく」は、英語聖書欽定訳では会話「カンバセーション」と言い、改訳では振舞い・態度(マナー)と訳しています。何も難しいことではなく、心からの生まれかわりがあれば、人は自然に、ことば・振舞いに自ずからの変化があるはずです。キリストに罪赦された者は、その恵みに喜び、感謝し、キリストに生きようと誓いを立てます。その喜びに生き、誓いにふさわしくとの思いが尊いのです。

 27-30節に「戦い」の語が繰り返されています。物騒な言葉ですが、ここではこの世的な戦いではなく、競技的な「走る」の意です。人生という「駆場を走り抜こう」(ヘブル12:1-2)というのです。それには積極的な戦いと消極的な戦いがあります。前者で「一つ霊に堅く立ち、一つ心になって力を合わせる」(27)が求められます。一致は力を、分裂は破滅を齎します。パウロも生死の間に悩んだとき、キリストを公然とあがめるとの一心に立って、板挟状態を脱したと(1:12~)告白しています。後者では「反対者に脅かされてたじろがず」の忍耐が求められます。即ち苦難に立たされても、苦しみに耐える力を神に祈り求め続けることが大切です。隠れて見給う神が居給うことをこの時知らされます。苦しみの中にあって恵みの神を知るのです。周章狼狽の心は神の恵みによって平安と不動を取り戻します。

 56年前(54年)9月26日の此の日、津軽海峡で洞爺丸遭難事故があり、A・R・ストーン宣教師が亡くなられました。自らの胴衣を他の人に与えての最後でした。個人的にも親しくお交わりを頂いた先生の死を、キリストにふさわしく生きた方として、今日また脳を熱くして思い出します。松田明三郎牧師は同師の追悼詩の中で、最後に次の如く結びます。「あゝ、ストーン先生よ!/あなたの名の如く/あなたは石の門を記念として残し/あなた自身は通られなかったが/モーセに続いたイスラエルの民のように/多くの若い預言者たちが/この門をくぐり/あなたの宣教の使命を受けつぐであろう。」と。

「福音にふさわしく」の前の「ただ」には千金の重みが含まれています。バルトは「指一本を高く挙げて、警告しているようだ”ただ一つ!”」と解し、カルヴァンは「余の身に何事か起ころうとも、汝らはいかなる場合にも、正しい進路を走り続けよ!」との意と注解します。わたしたち各自は、今わが身に起こりつつある状況の中で、如何に振る舞うべきでしょうか。

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