過去の説教

互いに見えなくなるときも

互いに見えなくなるときも
三枝禮三

創世記31章40-53節 エフェソの信徒への手紙2章14-18節

ヤコブは母リベカの兄ラバンの許で長年羊飼いをして尽くしてきました。ラバンの欺きに堪えながらです。二人の娘を妻にしたことも、ただ働きさせられたこともラバンの欺きのせいです。妻とも相談の上ついに脱走を決行します。しかし、怒ったラバンに忽ち追いつかれてしまいます。さいわい前夜ラバンに現れたヤコブの神がヤコブに手出ししてはならないと諭されたので事なきを得ました。しかし、守り神を盗んだことは許せないと迫ります。ヤコブは潔白を誓い、もしも誰かのところで見つかればその者は生かしておかないと啖呵を切ります。ラケルが盗んだことを知らなかったからです。ヤコブは自ら最愛の妻を殺さなければならない危機に陥っていたわけです。危機一髪、ラケルの機転で見つかりません。すると、攻守逆転。ヤコブはラバンを詰ります。が、結局すべては神が味方だったからだと主を賛美します。

二つのことが同時に起こっています。イサクとエサウを欺いたヤコブがラバンの欺きによってキチンと裁かれたこと。同時にその裁きを通して神がヤコブの味方となり、救い出してくれたこと。神は人間の罪によって罪を裁くと同時に、裁きを通して救い出し給うのであります。

二人は契約の証拠の石塚を立てます。それはミツパ「見張り所」とも呼ばれます。「我々が互いに離れているときも、神が我々の間の証人として見張っていることを忘れるな」とラバンが言ったからです。「我々が互いに離れているときも」は、直訳すると「人がその友から隠されるときも」。ですから「互いに見えなくなるときも」と言い換えてもよいでしょう。

これは娘たちのためラバンがヤコブに釘を刺した言葉です。いくら愛し合って結ばれた夫婦でも、「互いに見えなくなるとき」があるものです。言葉が通じず、心が通じ合わなくなる魔の時。これは肉親同士、友達同士の間にも侵入します。そういうとき「たとえ、ほかのだれもいなくても、神御自身がお前とわたしの間の証人として見張っていることを忘れるな」という言葉はなんと重くて嬉しい言葉でしょう。

イザヤ書49:15には〈たとえ女がその乳飲み子を忘れ、母がその産んだ子を憐れまないことがあろうと、わたしはあなたを忘れることは決してない〉とあります。どのように不実で薄情で冷酷な人間の関係も、有り難いことにすべてを見通していられるその見張り人の憐れみの中で見張られているのであります。

「敵意をもって」。敵意が双方の間に働くことをラバンは恐れています。ヤコブもラケルのことで潔白など誇れません。ラケルはヤコブを相続権のある正当な主にしたかったのかも知れません。しかし、偶像を頼むことも盗むことも罪は罪です。ヤコブヘの善意から出たことも神の前には悪意です。好意から出たことも敵意と化します。その罪を問われなかったとはいえ、すべてを見通していられる見張り人の裁きから逃れることはできないはずです。それなのに何故ヤコブとラケルの罪は不問に付されたのでしょう。言うまでもありません。そこには既に神御自身がその罪を背負って彼らの代わりに自らを裁き給うという十字架への道が始まっていたからだ、そう言うより他はありません。

神は人間の敵意も悪意もキリストの十字架に架けて裁き取り除き給うのです。使徒パウロは言っています。「実に、キリストはわたしたちの平和です。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェ2:14〜15)

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