過去の説教

土の器に宝を納む

土の器に宝を納む
幌泉教会 土橋 修牧師

わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並はずれて偉大な力が神のものであって……

コリントの信徒への手紙二 4章7節

今月2月は「小の月」で、半端な28日で終わります。「2月は逃げる」と言われるゆえんです。1年は365日5時間48分46秒のため、この余りの調整が2月に寄せました。それでも猶半端が出るので、4年毎に1日追加となります。2月は半端時間の溜り場です。彼は強い差別感と劣等感を懐いているのかもしれません。

私は生来背丈低く「小さい」と言われることに劣等感を感じていました。それが、人生に大事の結婚式を2月19日に挙げました。19は「重苦」に通じ、二重に縁起の悪いことが重なりました。しかし、既にキリストの信仰に与った者同士、それは意に介さず、神のみ守りの中に60年が過ぎ、今回はダイヤモンド婚記念日を迎えます。私どもにとって2月は神の恵みの月、至福の月、大きな月となります。暦はどうあれ、環境・状況の変化はいざ知らず、内なる心の持ちようが、その人の人生を決める鍵となることは明白です。

テキストの発信人は、書き出しの自己紹介にもある通り、「キリスト・イエスの使徒パウロ」(1章1節)です。その名「パウロ」のギリシャ語には、「小さい」「小さい者」の意味があるそうです。大使徒パウロと小さき者パウロとの、使い分けの違いは何でしょう。彼の回心記には、生まれはれっきとしたユダヤ人、律法については高名なガマリエル門下生にして、熱心に神に仕え、キリスト教迫害追求の第一人者と任じています。しかし、ダマスコ門外で復活の主の声を聞き、彼の目からうろこが落ちたのです。イエスの下に悔改めが起り、イエスの下に彼の心は全く小さく低くされました。小さきイエスの僕が生まれたのは、イエスの声とその権威ある真理の力によるものでした。彼は神の前に於けるこの召命から、使徒として公言しつつも、信仰の心の底では、身を低く小さくして、パウロと自らを名乗るのではないかと思います。

更に彼は「私たちはこのような宝を土の器に納めます」と言います。「宝」とは他ならぬ神・イエスへの信仰です。「土の器」と聞けば誰しも、創世記2章7節を思い出します。「主なる神は土の塵でアダムを形づくり」とあり、人の素材は土の塵でした。私の姓は土橋なので少々こだわりがあります。土はまだしもその塵でとは何でしょう。塵には「汚れ」「汚物」の意があります。獣・家畜・鳥等々も地(土)から生まれました。しかし、人はその塵から造られたのです。土橋なる私の劣等感は益々強まります。救われ難く感じるのです。でも救いは次のことばによって与えられます。神はこの土の塵から造ったアダム(人)に息を吹き入れました。「人はこうして生きる者になった」というのです。取り柄の全く無くなった人(アダムならぬ私土橋)にも、神の息(霊)が注がれ、救いの道が開かれていることがわかったからです。

8節以下に、この世にあって受ける様々な困苦・艱難(かんなん)が上げられています。その嵐に襲われても「並外れて偉大な神の力」を信ずる者は、不変・不動で何も恐れることはないと、み言葉は励ましてくれます。小さくても弱くても、土の器で壊れ易く死に至る者でも、神の息・イエスの命が働く時、恐れるものは何もないのだと、繰返し告げ知らせてくれるのです。

「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」とは何と力強いみことばでしょう(11節)。イエスの顕現は罪の故に人を滅ぼすのではありません。寧ろ生かす為に贖罪(しょくざい)の十字架を負って下さったのです。予言者エゼキエルはイスラエルに対する神のことばを伝えて言います。「悔い改めて、凡て(すべて)の背きから立ち帰れ、どうしてお前は死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」(18章30〜22節)と。

ある先生は7節以下を注解するに先立ち申します。「是は驚くべき文章である。この部分だけでも、コリント後書を以って価値あらしめることが出来る」と。これこそ、真の神の顕現(マニフェスト)だからです。

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