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安息日に許されること

安息日に許されること
梅田憲章

だから、安息日に善いことをするのは許されている。

マタイによる福音書 12章1-14節

今日は、マタイによる福音書11章28-30節の「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」に引き続きます。安息日には誰でも空腹ではありませんでした。そのような中で、弟子たちは空腹を覚え、空腹に耐えられなくなり、麦の穂を摘んで食べ始めたのです。安息日以外では許されているこの行為を見たファリサイ派の人たちが、イエスに「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と迫るのです。安息日は神とイスラエルとの間に立てられた特別の契約のしるしであり(出エジプト記31章3節)、これを破るものは死をもって罰された(同31章14節)。この神聖な安息日を厳格に守るため、ユダヤ教では細かな禁止事項が定められていた。なぜこのような戒律を作り上げたかというと、そもそも彼らがバビロニアなどの国々に占領され、捕囚という苦難に陥ったのは、神の御旨に背いた結果であり、ふたたび神の恵みにあずかることを切望したとき、その御旨の成文化されたものとしての律法を遵守することに、あらゆる努力を集中したのは、必然的成行きであった。

それに対し、イエスは三段構えの答えをしておられる。
(1)まず、ダビデとその連れの者たちが、祭司だけに許されている供えのパンを食べたことを引用して、(Iサム21章1-6節)、人間の必要が儀式的制約に優先することを教え、信仰の新しい世界を開く。
さらに
(2)安息日に宮で儀式に携わる祭司たちが、供えのパンを替えたり(レビ24:8)、犠牲の小羊を殺したり、穀物のささげ物をささげたりして(民数記28:9-15)、その規定を破っても罪にはならない。そこでは神への礼拝が安息日律法に優先しており、実はそれこそ安息日を安息日たらしめる中心意義であることを示した。
そして、
(3)神が望まれるのは、生贄ではなく、神があわれみある方、忠実な方であるように、人もあわれみに生き、神に対して忠実に生きることを求めた。

イエスがついで対決されたのは、ユダヤ人の徹底的・絶対的な安息日遵守の生活態度であり、この絶対不動とも言うべき安息日についての信念であった。イエスは、羊と人間の価値の比較を示し、〈羊よりはるかに値うちのあるもの〉を神のメシヤとしての権威によっていやし、なえた手にもう一度生命を通わせる。そして、〈安息日に善いことをすることは、正しい〉(12節)という安息日規則の基本原則を教えられる。ファリサイ派の人たちは、いやしの奇蹟をなさる方を前にして、なえた手に苦しむ人に同情することも、そのいやしを喜ぶことも忘れて、かえってそれによって殺意を募らせる。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト記20:8)の積極的理解を安息日の主が与えておられるのに、彼らはそれに気がつかない。ついにヘロデ党とさえ結託して、イエス殺害を企てる。

私たちにとって本当の疲れ、重荷を覚えさせるものは何だろうか。私たちが飢え、渇きを覚えるのはなぜだろうか。今日の空腹を覚える弟子たちに麦の穂を摘んで食べ始めさせない律法、明日でもいいではないかと、片手のなえた男を癒させない安息日の戒律、安息日に善いことをするよりも、1521に及ぶ規則を守り抜くことを選ばせる罰則。「安息日にはすべての業をやめ、神のもとに来て憩いなさい」という神の教えが、1521の戒律によって「──してはならない。」ということを守ることにかわり、違反すると死が待っているという現実に変わったことにイエスは挑戦する。

このような現実は悲しいことではあるが、現在の私たちの日常でよく起こっている。他人の思いや作られた既成概念に従って歩む、自分の思いに従って歩む、自分が作った偶像にしたがって歩む。この様な相対的価値観の中の歩みを通しては、私たちは絶対的に癒されることはない。イエスは「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」といわれる。イエスのもとで、初めて、その苦しみは癒され、軽くなる。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とは「しないこと」ではなく、神のもとに、憩うときなのである。

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