神への賛美(交換講壇 旭川星光・美馬牛福音伝道所にて)
梅田憲章
女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
ルカによる福音書 13章10-17節
2009年11月15日に地区間交換講壇として、梅田憲章牧師が旭川星光伝道所・美馬牛福音伝道所で行った説教です。
いつもの安息日、イエスは会堂に入り、聖書を読み、神の言葉を語っていた。会堂のはずれで、腰が曲がったままの女性も聞いていた。「十八年間、わたしが探していたのはこの人ではないか。わたしが待っていたのは、この瞬間ではないか。」聞くにしたがい、「そうだ、わたしが探していたのはこの人だ。」彼女は確信し、前に進み、イエスをもっとはっきりと見ようとした。周りの人は女性の行動を批判的な目で眺めた。彼女は、そのさすような視線をものともせず、まっすぐに、目を注いだ。イエスと目が合ったとき、彼女は「救われる。」と直感した。その信頼をイエスは身に感じた。イエスは話しをやめ、彼女をみて、呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女はたちどころに癒され、神を賛美した。これを見ていた会堂長は、イエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」会堂長は「安息日を覚えて聖とせよ。」という法を守ることを建前とする理性の考えでいうのであった。
イエスは「罪のまま、今のままで、今、私の元に来なさい。休ませてあげよう。」といってくださった。女の必死な願い「直していただけるのでは」を聴かれたのだった。女はそこに癒していただいたイエスを通して神の働きを見、そして神を賛美したのです。
私たちの生きていくこの社会は複数の人間で成り立ち、その間にはさまざまな違いがあります。この違いは、放置したままにすると、関係がバラバラになります。この違いの中に共に歩める部分、理解しえる面を見出し、違いが決定的になる部分をお互いにどう克服していくかが鍵となります。違いをお互いが自分に責任で直すようにということは関係を壊してしまうのであります。現代ほど、違いに悩み、お互いに受け入れられることを必要としている時代はないでしょう。
わたしたちが何か問題を抱えて苦しむとき、誰かに相談したとします。そのとき、その人が「あなたはその点が悪いのだ。だから、あなたはこうすべきだ」などと言おうものなら、それがピッタリあたっていればいるほど、もうその人のところに相談に来るまいと思うでしょう。わたしたちが、心の中で期待している人は、聞いてくれて、受け入れてくれ、共に涙を流してくれる人なのではないでしょうか。うつ病を克服したモルトマンという神学者が「空の鳥が空気を必要とするように、魚が水を必要とするように、わたしたち人間は、互いに受け入れられることを必要としている。」といっています。
実は教会も互いに受け入れることの難しい違い、異質性に悩んできました。今日の癒しの出来事も、もし、愛がなければ、会堂長と同じにしたことであろう。十字架のイエスの愛が女の必死な願い、直していただけるのではが聞かれたのです。女は、そこに神の働きを見るのであります。彼女は、癒していただいたイエスではなく、神を賛美したのです。聖書は言います。「あなた方も互いに相手を受け入れなさい。」他者を苦しみから救う力を自分が持っていないことを自覚しつつ、そこに苦しさを覚えつつ、そのやり切れない思いを持ちつつ、ともに生きようとするとき、初めて、受け入れが起こり、相手に救いと癒しが起こるのです。自分がこのことのために、十字架にお係りになったイエスを見習うと決めたとき、このことのために死ぬと決めたときに、神が働いて、癒してくださる、のです。神の栄光が現れ、この女性のように神を賛美するのです。
今日の癒しの出来事は、教会に与えられている、主の権威による業でした。「教会の中で出来ないことは、教会の外ではできない。」不可能と思われる人をも受け入れる、ともに歩もうとする。そうすると、神の愛が働いて、それが可能となる。私たちは出来ない、が、それをやろうとする時、私たちを通して神が働かれるのです。そして神が賛美されるのです。