過去の説教

悔い改め

悔い改め
梅田憲章

人々が罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。人々が罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

マタイによる福音書 3章1-7節

ヨハネは、エリアそっくりに、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていました。ヨハネはいでたちから、立ち振る舞いまでエルサレムの神殿や会堂で人々を指導する祭司や律法学者とは異なっていました。彼らはどのように行動することが律法を守ることであるかを教えました。ユダヤ人は教えられたように律法を守ることによって、神の恵みの中を生きているというのでした。ヨハネはどう律法を守るかではなく、「天の国は近づいているのだから、悔い改めよ。」と語ったのです。この短い言葉は、人々のこころを揺さぶりました。ユダヤ全土から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのであります。交通機関も宿泊施設も道路も安全も現代からは想像も出来ないほど劣悪な状況にあって、「悔い改めよ、天の支配は近づいている。」この言葉がユダヤ全土に流れ、人は動くのでした。ヨハネが告げる「悔い改めよ」は、「今までのものから離れて、出発点に立ち戻ること」が元の意味であります。今までのものとは、神から離れ、人との関係に生きてきたことでありましょう。人々との比較に生き、勝負にかけ、差異に喜びと悲しみを感じてきたことでしょう。神よりも自分を主役に考え、自分を大切に、自分の安全を、自分の都合を、自分の願いを、自分の希望に優先順位を高くしてきたことでしょう。そうしないと自分を、自分の家族を守れないのです。

しかし、ヨハネは、声を大にして「神のほうに向きを変えなさい。」というのです。他人ばかりを見ていた人間が、顔を神に向けるのです。これは一つの挑戦であります。

神のほうに向きを変えた時、先ず第1に見えてくるものは、不思議なことに客観化された自分であります。今まで見たことのない自分であります。自分も悪いが、あいつはもっとひどい。というような批判、非難、言い訳、弁解、正当化などを繰り返す自分が見えてくるのです。自分の過去がはっきりと次から次へと見えてくるのです。忘れようとしている自分が見えてくるのです。神のほうに向きを変えた時に、言い逃れのできない自分が見え始めるのです。そこで初めて、神の光が打ち倒された自分に向けられていることに気づき、傷ついた私たちを温め、新たに立ち上がる気力に満たしてくださることに気づくのでした。

その光でみると ルカによる福音書 18章9-14節「ファリサイ派の人と徴税人が祈るために神殿に上った。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ファリサイ派の人は自分の過去で、人を見て自分の人生を歩んでいるのです。徴税人は自分の未来で、神を見て、自分の人生を描いているのでした。

神を見たら、だれが自分を、自分の家族を守るのかと疑問を持つ方も居られるでしょう。それは新しく生まれ変わった、神に仕えるものとなった自分が責任を持って行うことになるでしょう。

おそらく今まで、精一杯だった自分の人生に神がともにいてくださることによって、永遠に根ざした希望の光が差し込める人生に姿が変わり始めるでしょう。そして、自分を、自分の家族を、そして隣人を配慮するのです。自分を愛するように隣人を愛するのです。

人が神に出会う、神の愛に触れる、神の赦しにうたれる、神の憐れみに涙する、永遠の命に感謝する。

これらすべては神のほうに向きを変える、すなわち「悔い改める」から始まるのです。

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