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十字架を背負う

十字架を背負う
梅田憲章

このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節

ユダヤ人キリスト者は、異邦人に割礼を受けさせ、ユダヤ教徒に改宗させることで、神の民イスラエルを継承する者とさせ、ユダヤ教徒の迫害を逃れことが出来ると考えたのでした。しかし、パウロがユダヤ人を「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」(ローマの信徒への手紙2章17-24節)というだけでなく、自分の罪についても、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」(ローマの信徒への手紙7章19-24節)と告白し、律法を守ることによって、救われることがありえないことを明らかとしました。パウロにとって、割礼を受けさせることによって、
1.よく思われたい
2.迫害されたくない
3.肉について誇りたい
というユダヤ教徒の願いは真っ向から対立するものだったのです。

人は誇るものによって、自己の存在を明らかにします。たとえば、子供、健康、名誉、財産、知識、才能、職業、経歴、経験などで、他人と比較し、私たちは誇りたがるのです。パウロは「キリスト者は主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」というのです。パウロはダマスコで復活の主イエスにであう前は「肉を頼みにし」「律法の義については落ち度のない者」であることを誇っていたのです。(フィリピの信徒への手紙3章4-6節)。パウロは主イエスと出会い、今はそのすべてを失ったのです。いや、そうではなく、いまや、キリストにある新しい価値の基準が支配する新しい世界が開かれたのです。

パウロは、すべての結論として、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」と語りかけます。古い自己の死とその中からの新しい生命の創造こそがキリストの十字架を通して与えられる救いであるというのです。この言葉は、コリントの信徒への手紙二 5章17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と同じであります。

このパウロの歩みはわたしたちに、二つの緊張を強いるのです。一つは外的な敵対者との戦いです。現代はパウロのように、迫害を受けることはないが、しかし、外的なこの世の仕組みはキリスト者の希望とは相容れない部分が多いのです。勤務が日曜日にも、週日と同じように変わらずにある、などで代表されるのです。権威や基準や計画や判断がこの世とキリスト者で異なるのです。ガラテヤの人々は割礼を受けることで、ユダヤ教徒からの迫害を逃れようと考えました。パウロは、そのようなことでこの世との関係を良好に保つことを敢然と拒否しました。わたしたちはこのような問題にあったとき、妥協や屈服の中に逃げ込むべきか、誠実に立ち向かうかを決めなければならないのです。それは個人だけではありません。教会が変わらなければならないという問題をも、引き起こすのです。

もう一つの緊張はわたしたちの内面での戦いです。神が遠くにかけ離れた存在に思える、祈りが聞かれていないように思われたり、絶望が希望を押しつぶすように思われたりするのです。結局神は信頼できない、恵みはすべての人に足りないのではないのか、この世の制度や基準の方が確かではないだろうかと思わせるのです。

パウロのようにキリストの十字架、主を誇ることを決めた戦いを見ると、彼は臆病者と批判され、弱さや生きる望みを失うほどの耐えられない圧迫を経験します。彼はそれらを否定することはない。そのたびごとに彼は、苦難の中に意味を見出しています。疑いと不安さえも主を誇るパウロに打ち勝つことが出来ないのです。パウロの十字架への信頼は、苦難や試練に対する積極的な態度を作り出しているのです。さらに、苦しみに悩むすべての人とともに苦しむことの出来る人間、慰めを与えることの出来る人間にしているのです。

パウロはガラテヤの人々に激しい非難や叱責を浴びせましたが、このパウロの思いは失望に終わりませんでした。パウロの意見に同意した彼らはこの手紙を筆写し、後世に伝えたのです。やがて、この手紙は新約聖書の中枢に位置する文書になり、宗教改革を促す発火点となったのです。

8月30日は牧師夏休みのため、説教掲載はありません。

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