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互いに重荷を担う

互いに重荷を担う
梅田憲章

互いに重荷を担いなさい。

ガラテヤの信徒への手紙 6章1-10節

ガラテヤ教会の中では、信仰によってのみ生きる人々と律法の業を主張する人々が、互いに挑みあったり、ねたみあったりしていました。パウロは彼らに神を父とする家族であってほしいという願いをこめて、「兄弟たち」と語りかけます。どんなに交わりが豊かであっても、親しくても、家族という思いが成り立たなければ、隣人は親しい他人なのです。しかし、ともに喜び、ともに笑い、ともに歩む。ともに慰めを求める。ともに神のみ前に立つ。兄弟姉妹の決定的な点は、この家族として「ともに」が成り立つことなのです。

私たちの生き方には大きく分けると3つの生き方があります。
1.肉の世界での生き方では、自己主張がなされ、競争が常識であり、その結果、優勝劣敗が競われるのです。安全、安定、財産、能力、地位、名誉などを求めて戦われるのです。助ける暇があったら、その時を自分のことのために用いる、それが競争なのです。

2.律法の世界では、罪に落ちた者は断罪を持って臨むのが当然でした。律法を犯した者は罪に定められるからです。教会がさばきあうとき、強いものが勝利し、弱い立場の人がはじき出されてしまうのです。これがガラテヤ教会の現実でした。

3.”霊”に導かれて生きる生き方では、肉の世界で起こる問題を、肉の力で解決するのではなく、霊の働きを用いて、解決しなさいと指示するのです。この生き方は肉からの自由、律法からの自由に他ならないのです。

「兄弟たち、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙 5章13節)の言葉は、キリストの新しい律法となっているのです。

自分の行い、キリスト者としての生き方、生活の価値は、ほかの人との比較において意味があるのではなく、それ自体において吟味されなければなりません。

さらに、自分自身の力で勝ち取ったものなのか、神から恵みとして与えられたのかを自ら問うてみなさいといっているのです。そうすれば、誰でも「誇る者は主を誇る」となるだろう。とパウロは言うのです。

キリスト者の人生の内容は、個人として重荷を背負って進むという人生の旅路において、互いに助けの手を伸ばし、お互いの重荷を背負いあうことが、愛のわざとして要請されているのです。

自分の重荷とは他人に担ってもらうことの出来ない問題です。自分で解決しなければなりません。しかし、その解決は一生懸命努力し、がんばることを唯一の手段とはしません。それは、がんばって解決した時に、自分の力を自慢する人間の弱さを知っているからです。神の指示に従って努力するのです。この重荷は、マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」の重荷であります。神がその重荷を背負えるようにしてくださるというのです。

2節の互いに重荷を担うという言葉は、重さ、負担がイメージの言葉です。他者によって、自分の体が泥沼から引き上げられ、初めて浮かび上がることが出来るそのような負担を意味します。それは私たちの弱さであり、過ちであり、さらには悲しみであり、苦しみであります。その人とともに罪と戦い、その人のためにとりなしの祈りをするのです。してあげるだけではありません、自分もその輪の中に入り、祈ってもらうのです。

個人が担う問題、個人と神が担う問題とチームプレーのように互いに担い合う、とりなしあうことが私たちの人生の旅路に、教会に要請されているのです。

肉の世界や、律法の世界の中で、自己中心主義の「古い人」に生きる人々と霊に満たされた世界の中で、神中心主義の「新しい人」に生きる人は、互いに重荷を担うという「愛の奉仕」を無視するか実践するかに相違が現れるのです。

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