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使徒への召し

使徒への召し
梅田憲章

わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して

コリントの信徒への手紙一1章11-24節

パウロの福音は、人間の思いや願いから作られたものではなく、また、人間的権威によって伝えられたりしたものでもない、とパウロはいいます。パウロの告げ知らせた福音とはロ−マの信徒への手紙10章9-10節に示される「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」でした。パウロは、その福音は人からではなく、神によって明らかにされたものであるというのです。

パウロはかって、ユダヤ教に徹しようとしていた。しかし、パウロは、迫害のため向かっていたダマスコ途上で、復活のキリストと出会い、今までの律法に熱心な生き方、人間の力によって救いをえるという生き方が完全あやまっていたことをはっきりと理解した。これほど熱心にユダヤ教の布教に努めたのに、なぜ、それが神への敵対という結果となったのだろうか。その元凶が律法を守るという姿勢にあるということを彼は思い知った。今までのパウロの行い、キリスト教徒を迫害し、滅ぼそうとすることが、自分の信じている神を滅ぼすことになるのだと気づいたのです。それゆえ、彼は今までの律法への熱心さをキリストへの熱心さに変え、生き方を大転換し、神の救いの道・福音による生き方を志そうとするのです。パウロは救いが律法によらないことを悟り、律法を知らない異邦人の間に福音を宣べ伝える使徒となるのでした。

パウロは母の胎内にあるときから選び分けられた存在でした。回心する前は、最も激しく敵対するものであった。しかし、神はパウロを恵みによって召し出し、そして、み心を示された。

私たちを使徒パウロとは比較することも問題かもしれません。しかし、私たちにはどのように福音が伝えられるのでしょうか。伝えられたのでしょうか

先ず第1は、私たちは選ばれた存在であるということです。私たちが神を選ぶより先に、神が私たちを選んでくださった。それは、偶然なことではない、私たちのスタートは神の御心の内にあるのです。私たちが選ばれるのは価値があるからではない。完全だからではない。神が完全で、私たちを愛してくださっているからなのです。もちろん実際には、伝える役は、家族であったり、先輩や知人であったり、本や放送や音楽で合ったりするでしょう。人から教えられ、導かれ、聖書を読み、礼拝に連なり、私たちの心の目が開かれ、キリストを受け入れるのです。「心のうちに神の光が輝く時、イエス・キリストの顔に神の栄光が輝くことを悟るのです。」コリントの信徒への手紙二4章6節。

第2は、恵みによって召しだされるのです。神が私たちに神の僕として、すべきことを指し示してくださるのです。それは回心と同時のこともありますが、後になってわかるということもありうるのです。

神の選びと召しは、私たちの危機の時にはっきりと現れます。私たちの歩みが無意味で、悲しみに満ち、愛に飢え渇いているように感じる時がある。そこでは呟きがあり、疲労があり、意欲がわかず、不安があります。しかし、私たちの神は、十字架にかかり、そして蘇ったイエスの父であり、イエス・キリストの受難を冷ややかに見ておられなかった。私たちの苦悩というべきものへの歩みも、イエスをみ守り、見つめていた神の視線の中で行われているのではないだろうか。

危機にぶつかる時、私たちは自分自身の選択に疑いを持つ。この選択は正しかっただろうか。もしほかの選択をしていたらどうだったろうか。自分の手元、足元に視線を落とす。しかし、あなたを選び、あなたを召しているのは私であるという神の声を聞くとき、フィリピの信徒への手紙4章19節「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」を確信するのである。視線が遠くを見つめるのである。

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