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神にのみ従う

神にのみ従う
梅田憲章

あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています

ガラテヤの信徒への手紙1章1-10節

ガラテヤの信徒への手紙は「いつも教会を正しく導く光」、福音的なかおりの高い文書といわれています。

ガラテヤで活動するパウロの反対者は、パウロを使徒ではあると認めますが、エルサレムの権威によって使徒とされているのではないかとパウロを非難していました。そこで、パウロは自分の使徒職をイエスと父なる神によったと主張します。また、パウロはこの手紙がパウロ一人の個人的な見解ではなく、わたしと一緒にいる兄弟一同の共通な見解であると告げます。パウロは、この手紙でも「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」とあいさつします。「恵み」とは、主イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が取り去られたという救いが、神の賜物として与えられているということです。「平和」とは、神以外はすべて動いていても、神は私にとって変わることがないという恵みの結果、与えられるものです。神は、律法の支配する世界から、キリストの死によって、「神への義と永遠の生命が支配する新しい神の国」へと救い出されるというのです。このことは、私たちの罪を赦すためにご自身を献げてくださったことによるのです。

パウロは、綿密な前書きをおえると、「あきれ果てています」という非難の言葉で本文をはじめます。こんなにも早く、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、あきれ果てているのです。こんなにも早く、パウロの予想もしなかった様子が手に取るようです。ガラテヤの人々を扇動したにせ教師は、律法遵守と割礼を要求することによって、彼らをキリストの恵みから引き離してしまったのです。パウロは反対者の福音を皮肉を込めて「ほかの福音」言います。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではありません。ユダヤ主義的キリスト者は十字架と復活の恩恵をうけるためには、先ず「神の民になることが必要である。割礼を受けよ、割礼を受けて神の民となってから、福音を受けよ。」といったのでありました。彼らは福音を変えたのではありませんでした。十字架も復活も否定されることはなく、罪の赦しも永遠の生命も変わりませんでした。福音を受けるための条件をつけたのでありました。その条件を受け入れることは、福音より、律法が優先することになるのでありました。

一方、ガラテヤの人々にも弱いところがありました。彼らは洗礼を受けて、霊の働きを自覚します。異教の神々からの自由を得ます。そして、民族的・宗教的・社会的な相違から来る制約やそれらから来る生活習慣からの解放・自由を獲得します。この自由が、律法の支配下に立つことを選ばせるのでした。これこそが共同体の生活を規律あるものとすると判断し、行動したのでした。彼らは自分たちの主張の正当化を諮るため、パウロの使徒職に非難を集中しました。

今日の教会もいろいろな意味で真の福音からはなれていく誘惑と危険にさらされています。ユダヤ主義キリスト者たちは「これらのことをなせ。そして生きよ」といいます。しかし、それは不可能なことで、キリスト者は「生きよ。そしてこれらのことをなせ。」と言うのです。私たちは価値判断のベースとして、その行為を基準にしています。行動によって自分を、そして他人を判断し、評価しようとするのです。他人との比較において、誇ったり、自慢したり、自信を失ったりするのです。

キリスト者の生き様は、多くの規則や規定を形通りに守るのではなく、キリストの模範と教えに助けられ、聖霊に導かれて、よき生活を生きることです。

そのようなときに、「罪びとである私たちは律法を守ることができない。私たちが神様との交わりを回復する救いの道は、神の恵み ──その具体的な表われであるキリストの福音── に信頼する以外にない。信仰は、私たちが神の恵みであるキリストの救いを受けるための唯一の手段である。」ということが分かるのです。

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