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洗礼と御子の霊

洗礼と御子の霊
三枝禮三牧師

創世記 22 章 16 節 / ガラテヤの信徒への手紙 3 章 26 節

16節「御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる』」創世記22章は聖書中で最もよく知られている重要な物語の一つです。その結びに念でも押すように語られているのがこの言葉です。しかし、主が「わたしは自らにかけて誓う」という言葉は大げさ過ぎて、ここだけに出てくる驚くべき言葉です。何故ここに出てくるのか。再度次に述べられる出来事の故です。即ち、「あなた(アブラハム)がこのことをおこない、自分の独り子である息子すら惜しまなかった」そのことのためです。直ぐ前の13節にある「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」の繰り返しです。強調です。それこそ歴史の中でやがて主御自身が独り子をわたしたち罪ある人間の身代わりとしてささげる出来事を、アブラハムが知らずして予告している出来事に他ならないでしょう。だからこそアブラハムがアクセントをこめて繰り返していられるのでしょう。

その結果アブラハムは18節で「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」と約束されています。子孫とは誰か?ガラテヤ書の答を聞きましょう。

<ガラテヤ書3:27>「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」<29>「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」

使徒パウロは、バプテスマで疑いもなく浸礼、水の中にどっぷり沈んで引き上げられる原始キリスト教のバプテスマについて言っているのでしょう。バプテスマの動詞「バプティゾー」は「沈む」を意味します。水葬のように沈み、キリストとともに死んで、キリストとともに引き上げられ、復活することを意味します。ですから、「キリストを着る」という言葉は、死ぬのも生きるのもキリストと一緒ということ。キリストと同じ身分になる。キリストのようになる。神の愛の対象として、神に愛される神の子とされるということです。

<ガラテヤ書4:6〜7>「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」とあります。

「アッバ、父よ」という叫びは、マルコによる福音書によれば、主イエスがゲッセマネの園で繰り返し繰り返し祈りつづけた言葉です。ペテロもヨハネもヤコブも、弟子たちみんなが眠り込んでしまっている間にもです。「叫ぶ(クラゾン)」は繰り返し繰り返し大声で叫びつづけることを意味する語形です。ですから、ルターはこのくだりについて、こういう驚くべき読み方を表明しています。直訳です。

“アッバ、父よ”という聖霊の叫びは、重苦しい、完全な無力さ、自分の現実の罪深さに直面したわれわれの心の懐疑のまっただ中から発せられている叫びだ。われわれは神の恩寵すら疑う懐疑に陥っている。われわれは“汝は犯罪人なり”と糾弾する悪魔の告発に直面している。いや、永劫の罪を以て地獄を用意している神の怒りに直面しているのだ。それは最早キリストすら我々に対して怒りを抱き、キリストの救いがあるなどというわれわれの経験はただの言葉に過ぎないかのように否定される、そのような躓きのまっただ中にあるのだ。

だが、その時である。あの叫びが響く。雲を突き抜け、天と地をいっぱいに満たして鳴り響く。余りに大きく鳴り響くので、それを聞いた天使は、未だ嘗て聞いたことのない叫びだと思う。そうだ、神ご自身も全世界の中にこのような響き以外に如何なる響きも聞かれたことがないほどの叫びであった、と。だが、更にルターの注目すべき点は、“アッバ、父よ”と叫ぶ御子の霊が、わたしたち罪の子を神の子とする救いの確かさに他ならないということを、ローマ・カトリック側の不確かさと及び腰に抗して、高らかに強調したことでもあります。

<4:7 「ですから、あなたがたはもはや奴隷としてではなく、子です。」>あなたがたは、神の子であるから、最早一時的に家に所属している奴隷ではない、と言われているのです。女奴隷ハガルの子イシュマエルではなく約束によって与えられたアブラハムの子イサクです。神の家族です。何故ならあなたがたは今や聖霊を注がれ“アッバ、父よ”と叫ぶ御子の霊を、心に頂いているからです。

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