神が働いて下さる
大坪章美牧師
使徒言行録 17 章 22〜25節
イザヤ書44章に入りますと、第二イザヤは、これまで語られてきた、イスラエルの過去のこととは対照的に、「そして、今」という言葉で始めています。主なる神様を、「イスラエルの王であり、救い主である」と、宣言しています。主は言われました、「わたしは初めであり、終わりである」。すなわち、「主は、“歴史の初めと、終わり”であって、その間は、神の支配が及んでいる」と言われているのです。神は、天地・宇宙の創造者であられますが、創造された後、自然に時が流れるのではありません。神様が、歴史を導いて下さっています。21節で主なる神様は、イスラエルの民に向かって呼びかけられました。「思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ」と言われました。
「神の僕」であるイスラエルが、心に留めなければならないことは、「主なる神、ヤハウェの証人である」ということです。そして、主なる神様は、「イスラエルよ、わたしを忘れてはならない」と言われていますが、ヘブル語原文を直訳しますと、「わたしは、あなたを忘れない」と言う言葉です。神様が、「イスラエルの民を、決して忘れない」と、仰っているのです。
22節でも、神様は仰いました、「わたしは、あなたの背きを、雲のように、罪を霧のように、吹き払った。わたしに立ち帰れ」と、招かれました。神様は、人間が悔い改めをする以前から、「既に、赦した」と言われています。無条件の赦しです。24節で、主なる神様は、語られました。「わたしはヤハウェ、すべてのものを造り、ひとりで天を張り広げ、地を開いた」と、言われました。ご自身が、存在し続けるものである、ということに於いて、「主なる神様は、何らかのものに依存したり、影響されたりすることはあり得ません。主は、自ら、天地を創造され、そして、その後の歴史においても、贖い主として働いて下さる方」なのです。
この、“神の本質”は、新約の時代の、使徒言行録にも、語り継がれています。それは、紀元50年頃、使徒パウロがシラスを伴なって始めた、第二回伝道旅行の途上でのことでした。 パウロは、シラスとテモテが到着するのを待っている間に、アテネの町の至るところに偶像があるのを見て、憤慨したと、記されています。かつて、敬虔なユダヤ教徒であったパウロには、申命記4:16節以下の律法が頭に浮かんでいたに違いありません。そこには、「堕落して、自分のために、如何なる形の像も、造ってはならない。男や女の形も、地上の如何なる獣の形も・・」と定められています。
パウロは、毎日広場で論じていました。その相手には、エピクロス学派や、ストア学派等の哲学者も居たのですが、彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行って、「あなたが説いている、この新しい教えがどんなものか、知らせて貰えないか。」と、申し入れたのです。
パウロが語り出した言葉は、「アテネの皆さん、あらゆる点において、あなたがたが信仰の篤い方であることを、わたしは認めます」という内容でした。パウロは、言葉を続けました。、「それで、“あなたがたが、知らずに拝んでいるもの”。それを、わたしはお知らせしましょう」と、呼びかけました。「世界と、その中の、万物とを造られた神が、その方です。この神は、天地の主ですから、手で造られた神殿などにはお住みになりません」と、言っています。
そして、パウロは、「世界の造り主である神は、人間の手で造られた神殿や祭壇には、お住みにならない」ということ、そして、「神ご自身に、何かの不足や、欠陥があって、人々の手から施しをお受けになる必要は無い。そのために供え物をする祭壇があるのではない」ということ、そして、「神様、ご自身が、全ての人々に命と息と、全てのものを、与えて下さっている」ということを説教したのです。
この、パウロの説教の言葉こそ、かつて、第二イザヤの口を通して、神様が語られた、「主は、こう言われる。わたしは主、万物の造り主、自ら天を延べ、独り、地を踏み広げた」というお言葉の、語り直しなのです。主なる神様は、今も、わたしたちのために、道を踏み広げ、愛し、救いをもたらして下さるのです。