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望みなき時の望み

望みなき時の望み
大坪章美牧師

ローマの信徒への手紙 4章13-22節

ローマ書4:3節には、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」と記されています。“人間の思い”では、不可能な事でも、「神様ならばおできになる」と、信じる事、此の事によって、アブラハムは、主なる神様から、「義なる者」と認められたのでした。

4章に入ってから、何が語られているかと申しますと一貫して、「アブラハムが何ゆえに、義と認められたのか」という事が語られています。そして、その答えが、「“アブラハムは、神を信じた。”それが、彼の義と認められた」という、一点なのです。一般に、この世の人は、“報酬”というものは、“恵み”ではなく、“働きに応じて、当然支払われるべき対価”と、考えます。ところが神様は、“働きが無くても”、「神を信じる信仰」によって、“その信仰を義とされ”、恵みを下さいます。

12節の言葉は重大な真理を語っています。アブラハムの生涯の中で、神の救いの歴史の、大きな分岐点が生まれるのです。アブラハムが年老いて、神に義とされるまでは、すべての人類の間に、何の差別もありませんでした。しかし、アブラハムが神に義とされた後、人類は、二分されたのです。すなわち、「神に義とされたアブラハムと、その子孫」が一つの分類、そして、もう一つが、「アブラハムの子孫ではない人間」です。これは、人種には関係がありません。アブラハムが義とされたのは、「神を信じた」からです。神を信じた者は、ユダヤ人も、異邦人も、関係ないのです。

「何故、神様は、アブラハムとその子孫に、世界を受け継がせることを約束されたのか」と言いますと、「その約束は、律法に基づいてではなく、“信仰による義”に基づいてなされたからだ」と、言われています。

こうして、人種も、信条も関係なく、ただ、「神を信じる」という一点だけの絆で、わたしたちはアブラハムの子孫であり、約束の恵みに与るのです。18節に言われています、「アブラハムは、希望するすべも無かった時に、なおも望みを抱いて信じ、『あなたの子孫は、このようになる』と、言われたとおりに、多くの民の父となった」と、あります。

信仰は、「現実の次元に逆らって、ひたすら、“神のみ言葉”に、即ち、“その御力と可能性において、無限であり給う全能の神のみ言葉”にお委ねする事」なのです。アブラハムは、現実においては、希望するすべも無かった時に、即ち、絶望的な状況の只中で、なお、「あなたの子孫はこのようになる」との、“神のみ言葉”を信じたが故に、多くの国民の父となったのでした。

具体的には、19節に述べられています、「その頃、アブラハムは、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えていて、そして妻サラの体も、子を宿せない、と知りながらも、その信仰は弱まらなかった」と、記されています。普通であれば、信じられない事です。アブラハムだって、そうでした。アブラハムは、自分を欺くような、無責任な人ではありませんでした。自分とサラが、生殖能力という点では、死んだも同然であって、子どもを産む力が無い事は十分承知していました。然し、本当の信仰は、ここから、始まるのです。

「神様は、約束された事を実現させる力をお持ちの方」と、確信していました。それは「死者の復活」、「無からの創造」そのものでした。事実、アブラハムの信仰は、この重圧のもとで、逆に強くされたのです。どうしたかと、申しますと、アブラハムは、神の約束を疑うのではなく、逆に「神を信じる事によって、神を、神たらしめ、それによって神に栄光を帰した」のです。

この時のアブラハムの信仰は、「『神は、不可能を可能にされる』と信じる事」でした。「神は、約束した事を実現させる力も、お持ちの方だと確信していた」と、記されている通りです。この、確信が、救いの源です。

信仰は、自分自身の側に、何らかの力があるのではありません。努力したところで、限りがあります。重大な事は、「自分自身の努力ではなく、“神の恵みと、力”にある、と悟ること」です。そして、この、アブラハムの信仰を、神は、“義”と、認められたのでした。

アブラハムは、 “望み無きときの望み”、を信じて、多くの国民の父祖と、なったのです。

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