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途絶えない救いの約束

途絶えない救いの約束
大坪章美牧師

マルコによる福音書 11章1-10節

エレミヤは、南王国ユダの第19代王、エホヤキンに向かって、語っています。「わたしは、あなたを、バビロンの王、ネブカドネツァルとカルデア人の手に渡す。あなた達は、そこで死ぬ」と伝えたのでした。実際、この預言通り、エホヤキン自身は勿論の事、王の母や家臣達もネブカドネツァルの手に落ちて、バビロンへ連行され、捕囚の民としての生活を余儀なくさせられました。エレミヤが疑問に思ったのは、この、エホヤキン王こそ、南王国ユダの正統な王ではなかったのか。何故、バビロンの地で、最後を迎えなければならないのか、という疑問でした。実際、エホヤキンはダビデの系図の、最後の者となりました。主なる神様ご自身が、ダビデ王朝の王の系図を閉じられたのです。

然し、主なる神様の救いの御業、“救いの約束”は、この、ダビデ王朝の断絶で終わった訳ではありません。この時点から、別な方法で、“救いの約束”は、力強く始まっていたのです。主なる神様は、異国の地へ、遠い、ユダの国外へ追放された民たちを、再び、ユダへ集めよう、と言われるのです。23:3節以下には、「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる」と、宣言されました。そして、新しく集められた民を牧する牧者は、“地上の王”であってはならないのです。茲に、エレミヤは、“メシア預言”を語ります。23:5節です、「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデの為に、正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う」と語りました。

然し、ヤハウェのご意思に基づく、真のダビデ王国の王が、どのようにして立てられるか、は、エレミヤは、語りません。それは、神の秘儀だからです。

このエレミヤ預言から、六百年余りも後のこと。ユダヤのエルサレムを前方に見下ろす、オリーブ山の南東斜面あたりでのことです。イエス様が、弟子たちと、大勢の群集と共に歩いて、エルサレムに近づいて、ベタニア村にさしかかった時でした。イエス様は、2人の弟子を使いに出そうとして、言われました。「向うの村に行きなさい。村に入ると、すぐ、未だ誰も乗ったことのない、子ろばのつないであるのが見つかる。それを解いて、連れて来なさい」と、命令されたのです。

7節には、2人の弟子達が子ろばを連れて、イエス様の所に戻って来て、その上に自分の服を掛けると、「イエス様は、それにお乗りになった」と、記されています。イエス様は、茲で、言葉で表されることなく、劇的な行いによって、人々に知らしめようとされたのでした。 “劇的な行い”とは、ご自分が、メシア、即ち、「神が約束された、救い主」であるということの、象徴的な出来事を行われたのです。王が戦いに出かける時は、馬に乗って出かけ、平和のうちに来る時は、ろばに乗って来るのでした。イエス様は、柔和で、しかも、謙遜な態度で来られました。

それにも関わらず、エルサレムの人々が待ち望んでいたのは、イスラエルを力で支配し、滅ぼそうとする支配者から独立させてくれる、力に満ちた王でした。

そして、子ろばの背に乗って進まれる、イエス様の前を行く者も、後ろに従う者も、一斉に叫んだ事が記されています。それは、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」という叫びでした。

「ホサナ」という言葉は “ホシヤー”「救って下さい」と“ナー”「どうか」で、「どうか、救って下さい」という言葉です。又、「主の名によって来られる方」とは、メシアの到来を意味していますが、そのメシアとは、“愛の救い主”とは異なって、「イスラエルの敵を、武力で粉砕してくれる征服者」としてのメシアでした。

このように、ユダヤの大勢の群衆が誤解して、歓迎する中を、イエス様は、その誤解を解く為に、“子ろばの背に乗って”、エルサレムへ入城されるのです。

ユダの、19代国王エホヤキンのバビロン捕囚の中での無念の死を最後に、ダビデの血統は途絶えたかに見えましたが、神がアブラハムに約束された事は実現しない筈は無いのです。私達もこのような神の約束によって救われている幸いを、共に喜びたいと思います。

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