過去の説教

今は憐れみを受けている

今は憐れみを受けている
大坪章美

ペテロの手紙一 2 章 1-10 節

ペトロは、小アジアの諸教会のキリスト者たちに、「あなたたちは、生まれ変わった人間である。神によって、今までとは違った、新しい人生に生まれ変わったのだ」と、言っています。人がキリスト者になる時に、あまりにも根本的で、決定的な人生の変化が起きるものですから、「自分は、神によって生まれ変わった」と、告白せざるを得なかったのです。

2:1節は、「だから」即ち、「あなた方は、互いに兄弟姉妹なのであるから」という意味が込められています。「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じり気のない、霊の乳を慕い求めなさい」と、勧告しています。

4節で、ペトロはもはや、小アジアのキリスト者を、「霊的な、乳飲み子」とは、呼びません。今度は、「霊的な建築」を問題にします。前提として、教会の集会を、「神がその基礎となる石を置かれた本当の霊の宮」であると、考えています。ペトロは、「この主の許に来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては、選ばれた、尊い、生きた石、なのです」と、記しています。ユダヤ民族は、悲しい事に、物に過ぎないエルサレム神殿に固執しました。然し、新しい本当の霊の宮は、生きておられる、キリスト・イエスが、その宮を支える土台なのです。教会の集会という、新しい、生きた“霊の宮”は、人間の手によって建てられたものではなく、神の霊によるものなのです。

そして、ぺトロは、旧約の祭儀に携わった人が聞いたら肝を潰すような事を、小アジアの信徒達に勧めます。「あなた方自身も、生きた石として用いられ、霊的な家に作り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって、神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して、捧げなさい」と言っています。

なんと、小アジアの信徒たちは、そして、わたしたちキリスト者もそうなのですが、「聖なる祭司となりなさい」と、命令されているのです。イスラエルの民の中で、祭司職に就けるのは、レビ族に限られていました。また、いけにえは、かつての祭司が捧げたような、屠られた動物のようなものではありません。それは、神様に対する“感謝”であり、“賛美”です。

8節では、「この石はまた、『つまづきの石、妨げの岩』なのです」と記されています。“この石”とは、申し上げるまでもなく、主なる神様が選んで、シオンに置かれた、「尊いかなめ石」。「これを信じる者は、決して失望することが無い」と言われる、集会の土台石、即ち、キリスト・イエスの事ですが、この箇所は、イザヤ書8:14節からの引用です。そこには、「主は、聖所にとってはつまずきの石。イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩。エルサレムの住民にとっては、仕掛け網となり、罠となられる」と預言されています。

「神は、どんな危険が襲いかかろうとも、信じる者にとっては、確かな逃れの岩となるが、信じない者達にとっては、破滅の道となる」と告げています。即ち、イエス・キリストは、信じない者達にとっては、つまづきとなるが、信じる者にとっては、かけがいの無いものである、と言っているのです。人は、このイエス・キリストというシオンの山に置かれた石によって、運命を、そして人生を、変えられるのです。ユダヤ人は、この石に躓いて、父祖以来受け継いでいた律法の業に信頼した為に、未だに救いの民とはされていません。

ペトロは、続けて言っています、「彼らは、御言葉を信じないのでつまづくのですが、実は、そうなるように、定められているのです」と言っています。これは、ユダヤ人の頑なさの故に、救いの恵みが異邦人たちの上に先行している事実を物語っています。

個人的に見ても、わたし達キリスト者は、今や、かつての王の地位に並ぶ、祭司としての地位と権利を与えられています。わたし達は今や、神の民とされています。かつては、異邦人として、生ける神を知らず、異なる神々に仕えていました。かつては、神の憐れみを受ける事も無く、恵みを受ける事もありませんでした。しかし、今や、神の憐れみを受け、恵みを頂く者となったのです。この幸いを、主に感謝したいのです。

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