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わたしは道である

わたしは道である
大坪章美

ヨハネによる福音書 14 章 1-11 節

過越しの祭の前日の夜でした。イエス様は、最後の晩餐を終えられ、11人の弟子たちに言われました。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなた方と共に居る。あなた方はわたしを捜すだろう。『わたしが行くところに、あなたたちは来ることができない』と、ユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも、同じことを言っておく」と記されています。

この言葉を聞いて、弟子たちは不安に襲われ、心が騒ぎました。そのような弟子たちを前にして、イエス様は仰いました、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも、信じなさい」と言われました。イエス様は、「神を信じなさい。即ち、わたしをも信じなさい」と仰っているのです。

イエス様が置かれている状況から見る限り、イエス様は、死を覚悟され、「父の御許へ上る」とまで、宣言されているのに、そのイエス様を「信じなさい」と仰っています。目に見える現実としては、「イエス様の挫折」のように見えます。しかし、イエス様が宣言されているのは、「父なる神と、イエス様との勝利」に外なりません。

この、「目の前の現実」と、イエス様の「勝利の宣言」との間の驚くべきギャップは、どのようにして、埋まるのでしょうか。

その答えが、2節で述べられたイエス様のお言葉です。そこには、「わたしの父の家には、住む所が沢山ある。もし、無ければ、あなた方のために、場所を用意しに行く、言ったであろうか」と記されています。

しかし、「イエス様が、再び戻って来られる時」とは、どういう意味なのでしょう。
イエス様が、聖霊として弟子たちに臨むことが考えられます。イエス様が天に上られて、弟子たちのために場所を用意して戻って来られるのは、“聖霊として”なのです。イエス様は、「こうして、わたしの居るところに、あなたがたも居ることになる」と仰いました。
弟子たちは、また、イエス様と共に、いつまでも、神の御許に住むことが許されるのです。

イエス様は、弟子たちに、「わたしの父の家には、住む所がたくさんある。行ってあなたがたのために場所を用意したら戻って来る」と仰って、ご自分がどこへ行こうとしているか、については、「ご自分をお遣わしになった父なる神のいます所だ」と、繰り返し、繰り返し、語って聞かせられたのですが、弟子たちには理解できませんでした。イエス様が、徐に、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と、弟子たちに言われた時も、トマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」と尋ねたのです。

イエス様は答えられました、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も、父の許に行くことができない」と仰いました。「天の父の許へ至る道」について、イエス様は、その道が、地上のどこに位置しているか、というようなことは、考えておられません。「わたしが道である」と仰っています。即ち、その“道”とは、地上の場所のことではなく、「イエス様ご自身との、人格的な関係」のことです。「わたしが道である」とは、「わたしと、人格的な交わりを持ちなさい。そうすれば、わたしが道となって、父なる神の御許へ連れて行こう」と、言われているのです。“イエス様との、人格的な交わり”とは、「イエス様を信じること」に尽きます。イエスさまを信じることによって、もう、わたしたちは、道に迷うことは無くなるのです。イエス様が、わたしたちの手を携えて、共に歩んで下さり、わたしたちを強め、導いて下さるのです。

わたしたちは、イエス様の御言葉の中にも、そして、御業の中にも、主なる神様のご臨在を認めます。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、命である」と言って下さいます。そのイエス様なる道に留まって決して離れることなく、導いて下さる道を通って、父なる神の御許へ導かれることを願いたいのです。

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