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聖霊によって喜び溢れる

聖霊によって喜び溢れる
大坪章美

ルカによる福音書 10 章 17-24 節

イエス様のガリラヤでの伝道も、終わりに近づきました。イエス様は12人の弟子たちの他に、更に72人の弟子を任命されて、ご自分が行かれるおつもりであった町や村に、2人ずつ先に遣わされたのでした。

然し、この時の、イエス様が弟子達を送り出すときのお言葉は、厳しいものでした。3節には、「行きなさい。わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに、小羊を送り込むようなものだ。財布も、袋も、履物も持って行くな」と命令されました。ここで私達は、驚くべき言葉が目に飛び込んでくるのを覚えます。72人の弟子達は、「喜んで帰って来て、『主よ、お名前を使うと悪霊さえも、わたしたちに屈服します』」と、口々に報告した、と言うのです。驚くべき言葉とは、「弟子たちが、喜んで帰ってきた」ということです。

イエス様は仰います、20節です、「悪霊があなた方に屈服するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が、天に書き記されていることを喜びなさい」と、仰いました。イエス様は、「本当に喜ぶべきことは、別にある」と、仰るのです。「あなたがたの名が、天に記されていること」こそ、喜ぶべきである、と言われました。主なる神様が、わたしたちの名前を記して下さることにこそ、喜びの根源があるのです。
 弟子達が帰って来て、喜んで報告した事、「悪霊さえも屈服した事」、「敵のあらゆる力に勝利した事」、これらのことは、神様によって、弟子達の名前が、天に書き記されていたからなのです。勝利の生活が出来るのは、私たちの名前が、天に書き記されているからです。

21節には、2つ目の「喜び」の言葉が記されています。それは、イエス様の喜びでした。「その時」というのは、「弟子達、72人が喜んで帰って来た時」を指しています。弟子達も、皆、喜んで帰って来たのですが、イエス様は、それ以上に、「聖霊によって、喜び溢れた」と、言うのです。そして、聖霊によって喜びに溢れられた結果、父なる神への賛美を捧げられています。聖霊によって喜び溢れると、賛美の祈りが出てくるのは、イエス様だけではなく、わたし達も一緒です。主の恵みを思う時、思わず目を閉じて、「あゝ神様、感謝します」との祈りが、口をついて出てくる事があります。その時、聖霊が働いているのです。

この時、イエス様が喜びに溢れられた理由が語られています、「これらの事を、知恵ある者や、賢い者には隠して、幼な子のような者にお示しになりました」と、続けておられます。主なる神様は、当時の知識人でありました、祭司や律法学者たちには、これらのことを隠して、幼な子のような者たちに現されたのでした。

「それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた」とあります。弟子たちだけに向けられたイエス様の祝福の言葉です。「あなたがたの見ているものを見る目は、幸いだ」と祝福されました。そして、この“幸い”は、「旧約の預言者たち、モーセやイサクなど、そして王たち、ダビデやソロモンでさえ、あなたがたが今、見ているものを見ようと望んだのに見ることができず、あなたがたが今、聞いていることを、聞こうと熱望したのに、聞くことが出来なかった」と仰るのです。

ところが、イエス様の弟子たちは、メシヤであるイエス様に直接お会いし、自分たちの目で見ることが出来、語り合うことが出来ているのです。今日のわたしたちも、弟子たちが、イエス様に直接お会いしたようには、自分の目でお会いすることは出来ません。しかし、イエス様にお会いすることは出来ないまでも、イエス様が成し遂げて下さった十字架の贖いや、復活の出来事は知っています。

イエス様は、派遣された町々、村々から帰って来た弟子達が、救いに与った姿を見て、聖霊によって喜び溢れ、父なる神に、賛美の祈りを捧げられました。そして、イエス様が、聖霊によって喜び溢れられるのは、その時の弟子達だけを見てのことではありません。今、わたし達が、此の会堂に集められ、真の礼拝を捧げている時、やはり、イエス様は、天の父なる神様の右の座にあって、聖霊による喜びで溢れておられます。そして、私たちのために、執り成していて下さるのです。

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