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イエスの名によって祈る

イエスの名によって祈る
大坪章美

ヨハネの手紙一 5 章 13-17 節

今日お読み頂いた5:13節からは、この手紙の結びに当たる所です。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」と、記しています。

茲では、明らかに、手紙の宛先である読者達は、ヨハネによる福音書のヨハネが希望し、願い求めていた「永遠の命を受ける」という究極の目的を既に実現している事が、見て取れます。手紙の読者達は、福音書記者ヨハネが希望していた「イエスは神の子と信じる信仰」を既に持っており、又それによって、ヨハネが願い求めていた「イエスの名によって命を受ける」という恵みを「既に得ている」と記されているからです。

そして、既に、永遠の命を与えられている読者たちの生き方を、ヨハネは示しています。まず、「何事でも、神の御心に適うことを、わたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」と記しています。しかし、神様が叶えて下さる、と約束されたわたしたちの祈りは、無制限に、どんな祈りでも良い、とは仰っていません。きちんと、条件が付けられているのです。14節の御言葉を、再確認いたしますと、「何事でも、神の御心に適うことを、私たちが願うならば」と記されています。  

然し、私達は、自分の祈る事が、神の御心に適っているかどうかの確信が、予め、ある訳ではありません。私達の祈りが神に聞かれ、叶えられるのは、イエス様が天に昇られ、神様に執り成しをして下さるからなのです。そしてこれによって、イエス様が神の使者であったように、弟子達も、私達も、イエス様の使者になるのです。そして、イエス様は、弟子達の、そして私達の生涯を、その終わりまで満たして下さるのです。

しかし、わたしたちの祈りが、神の御心に適わないこともあるでしょう。むしろ、その方が、多いかも知れません。但し、祈る前から、そのようなことを心配することはありません。たとえ、わたしたちが、神様の御心に適わない祈りをしたとしても、あるいは、全く見当違いの祈りを捧げたとしても、イエス様が、執り成して下さるからです。イエス様の執り成しによって、わたしたちが祈ったことが、そのまま、聞かれることは無いかも知れません。しかし、それは、イエス様が、わたしたちに本当に必要なものを神様に伝えて下さっているからです。父なる神様は、その祈りに応えて、わたしたちに必要なものを、一番良い時に、一番良い方法で、実現して下さるのです。

次に、「神の御心に適う祈り」とは、どのような祈りなのでしょうか。ヨハネの手紙の著者ヨハネは、16節で、「死に至らない罪を犯した兄弟を見たら、その人の為に、神に願いなさい。そうすれば、神は、その人に、命をお与えになります」と記しています。一人のキリスト者が何か、過ちを犯している時にこそ、本当の兄弟愛が示されなければならない、と言っています。

但し、ヨハネは、茲でも、制限を設けるのです。執り成しの祈りをすることが出来るのは、「死に至る罪を犯していない場合に限る」と言っています。ヨハネが茲で言っている「死に至る罪」が、具体的に何であるかは、記されておりません。然し、推測は、可能です。ヨハネが、茲で、「死に至る罪」と、呼んでいるものは、異端の教師達、キリスト・イエスの福音を、根本から否定しようとするユダヤ人キリスト者達、そして集会の中で、彼らの誘惑に屈して、キリストの福音から離れる者達の事を、「死に至る罪」と呼んでいるようです。

そして、ここでヨハネが言っている、「死に至る罪」の“死”とは、地上における生の終わりのことではありません。それは、“永遠の死”のことで、その魂は、復活しても、神の国に入ることはないのです。

わたしたちの祈りは、イエス・キリストの御名によって祈られます。そこに、大きな恵みがあります。わたしたちの祈りは拙くても、イエス様が神の御心に適う形に、執り成してくださるのです。このように恵みを頂いたわたしたちは、兄弟姉妹のために、執り成しの祈りを祈りたいのです。どのような祈りであっても、イエス様が執り成して下さるのです。

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