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わたしは復活、命である

わたしは復活、命である
大坪章美

ヨハネによる福音書 11章 17-32節

イエス様がラザロの病気の知らせを受けたのは、ヨルダン川の東側、川のほとりのベタニアに滞在しておられた時のことでした。この土地は、最初に、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた場所でしたが、その時、イエス様は、弟子たちと共に、このベタニアに滞在されていました。ここで、イエス様は、オリーブ山のふもとのベタニアに住む、マルタとマリアの姉妹から、人を介して、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言う知らせをお受けになりました。そして、重い病気になったのは、マルタとマリアの兄弟ラザロのことでした。

それが、イエス様は知らせを受けてから二日間、同じ所に留まられたのでした。イエス様は、神様の御旨に対して、従順に行動されるという点で一貫しているのです。次の日、イエス様は、弟子たちに言われました、「もう一度、ユダヤに行こう」と仰ったのです。こうして、イエス様と弟子たちとは、オリーブ山の東側斜面にあるベタニアの村までやって来ました。17節には、「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて四日も経っていた」と記されています。
マルタは、イエス様をお迎えすると、弟の死を嘆いて言いました、「主よ、もし、ここに居て下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。然し、あなたが神にお願いになる事は何でも神は叶えて下さると、わたしは今でも承知しています。」と告げたのです。

このような、マルタに、イエス様は、「あなたの兄弟は復活する」と告げられました。これを聞いたマルタは、イエス様が言われた深い意味を理解することが出来ずに、当時、ユダヤ教のファリサイ派の人々が持っていた一般的な復活信仰で、これに答えました、「終わりの日の復活の時に、復活することは存じております」と言ったのです。然し、この復活信仰で言われている終末の日とは、いつ来るのか、見当もつかない遠い未来のことであって、死人がその日まで、死の軛に縛られているということになれば、希望を持てるようなものではありませんでした。

ここで、イエス様は、マルタの言葉を訂正されました、25節です、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われたのです。イエス様は、ただ、永遠の命を人に与えるだけではなく、「ご自身が復活であり、命である」と宣言されたのです。これは、マルタが告白した、「いつ来るか分からない未来の終末における復活の待望」ではありません。その終末が、イエス様において、現在となったのです。私たちは、永遠の命を頂き、いつもイエス様の内にあって、終わりの日に、復活させて頂けるのです。

なぜ、それが出来るかと申しますと、イエス様は、主なる神様から、命を与えるため、復活させるために、派遣されたメシアだからなのです。まさに、イエス様ご自身が復活であり、命なのです。「わたしは復活であり、命である」と仰るのは、イエス様がすべての人を復活させ、命を与えられる、という意味なのです。

そして、ここで、人類にはこれまで知られていなかった、全く新しい“生”が、イエス様によって宣言されました。それは、「身体を伴った、新しい永遠の命」という、「体の復活」であり、また、「死んでも生きる」と言う、体の死を否定する命、“復活”なのです。ラザロの復活は、正に、この“命への復活”の徴なのです。

イエス様が仰った、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者は、誰も決して死ぬことはない」と言うお言葉の、最初の「死んでも生きる」という意味は、「キリスト教徒は、肉体的には死んでも、生きるであろう」と言うこと、そして、次の、「わたしを信じる者は、誰も決して死ぬことはない」という意味は、「今、地上に生きている信徒にとっては、肉体の死が無意味になっているのですから、本来の意味の死は、存在しない」ことを、言っています。

私たちは、主なる神様が計画された救いの歴史の中を、安んじて、生きることができるのです。

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