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神に守られる者

神に守られる者
大坪章美

ヨハネによる福音書 17章 11-19節

イエス様は、これから、地上を去られるのです。もはや、地上に居る人間は、イエス様の栄光を目の当たりに見ることは出来なくなります。ですから、イエス様は、目前に迫った弟子たちとの訣別にあたって、弟子たちのために祈りを捧げられます。11節の後半には、「わたしに与えて下さった御名によって、彼らを守って下さい。わたしたちのように、彼らもひとつとなるためです。」と祈られました。弟子たち共同体は、この世の中にはおりますけれども、この世には属していないからです。洗礼を受けた時、それまでの罪の身はイエス・キリストと共に死に、復活のイエス様と共に新しい命を生きているから、この世には属していないのです。弟子たちも、そして私たち信仰者も、御父、御子と信仰者の一体性に留まることによって、絶えず守られているからです。イエス様の祈りの言葉は続きます、13節、「しかし、今、わたしは御許に参ります。世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです」と祈られました。イエス様が、「わたしの喜び」と言われていますのは、「イエス様との訣別によって、この世に残される信仰共同体が孤立すること。この“孤立”こそ、弟子たちの共同体に、終末に至るまでの完成をもたらす、喜ばしい出来事なのだ」という意味です。この、確実な救いの約束の中に抱かれた弟子たちの心の中には、この世のものならぬ喜びが注がれたのです。

15節で、イエス様は、世に残される弟子たちのために、具体的に祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることでは無く、悪い者から守って下さることです」と、祈られたのです。イエス様の祈りは、「信仰は、敗北主義ではない」ことを示しておられます。イエス様が願われたのは、弟子たちを、この世における使命から避難させることではなく、悪い者、諸霊や悪霊から守って下さいとの願いでした。このことは、当時の歴史的背景を考えた場合、当時の時代風潮に対する重大な、一つの警告を表すものでもありました。当時は多くの人々が、キリストの再臨が目前に迫っていることを予感して、これに備える為に浮き足立って、結婚を控えたり、刹那主義に陥ったり、乱れた生活の虜になる者も、少なくなかったのです。

イエス様は、16節で言われます、「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。」と祈られました。イエス様ご自身は、「聖なる者」であり給うのですから、「神にのみ属する方」であり、この世に属する方ではありませんでした。従って、イエス様の御言葉によって、この世から呼び出された人も又、「聖なる者」、即ち「神にのみ属する者」となるのです。

イエス様は、「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは、自分自身を捧げます。彼らも、真理によって捧げられた者となるためです」と、祈られました。「聖なる者とする」という事は、単に自己満足を味わうというような次元ではありません。この世に遣わされている事を意味します。ヨハネの考えでは、弟子達、或いは私達信徒がこの世に生きているのは、「遣わされた結果」なのです。弟子達は、イエス様と分かれた後、その伝道の業を、地上で続行しなければならないのです。そして、イエス様は、このような弟子達のために、「わたしは自分自身を捧げます」と、言われます。「自分自身を捧げます」という言葉の元の意味は、「供え物として捧げる」、「犠牲となる」という意味があります。

何と、イエス様は、弟子たちのために犠牲となりますと、言われているのです。イエス様が
命を捧げられることによって、残された弟子たちは、真に聖められ、罪を贖われ、この世から取り去られることなく、この世にあって、守られるのです。

イエス様が犠牲となられたのは、神殿の祭壇ではありませんでした。祭壇は、十字架でした。ゴルゴタの神殿の、祭壇、十字架の上で、イエス様は屠られたのです。それは、後に残る弟子たちを、この世から守るためでした。そして、今、私たちも、イエス様の犠牲によって、この世から、守られているのです。

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