過去の説教

共に居て下さる主

共に居て下さる主
大坪章美

ルカによる福音書 8章 22-25節

イエス様は、「ある日のこと」弟子達と一緒に、船出をされたのでした。そして、船出された町が何処であったかは記されておりません。しかし、推測することは出来ます。イエス様は、「湖の向う岸に渡ろう」と言われました。この後の26節には、「一行は、ガリラヤの向う岸にある、ゲラサ人の地方に着いた」と、記されているのです。逆に、デカポリスの方から湖の向う岸と言うことになりますと、湖の北西、そこはカファルナウムということになります。このように、イエス様は、ある日、弟子たちと一緒に舟に乗り込み、カファルナウムの船着場から対岸のデカポリスのゲラサへ向けて船出されたのでした。船着場を出てからどれほどの時が経ったかは記されておりません。ルカは、「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた」と記しています。群衆から解放されたイエス様は、弟子たちだけと共に舟に乗りこまれて、ホッと一息つかれて、舟が出ると間もなく、眠り込まれたものと思われます。

然し、次の瞬間、こののどかな情景が一変します。この時の情景を、ルカは、「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった」と記しています。恐らく、突風によって惹き起こされた大波が、舳先から舟全体に覆いかぶさるような状態にあったのでしょう。弟子たちは、近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、溺れそうです」と言ったと記されています。弟子たちのうち、ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、みんな、このガリラヤ湖で漁師として生活をしてきた屈強な男たちです。大抵の荒波は乗り切る技術と胆力は、備えていたに違いないのです。それが、今、「先生、先生、溺れそうです」と、泣き言にも近い言葉でイエス様に訴えたのでした。この時の突風とそれによる大波は、それ程、彼らの身に着けていた知識や技術では、立ち向かうことの出来ない程の凄まじいものであったと思われるのです。すると、イエス様が起き上がって、風と荒波をお叱りになると静まって凪になったと記されています。イエス様は、自然の力を支配する神の権能によって、風や波の活動を止められたのです。

そしてイエス様は言われました、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と仰ったのです。危機に直面して、信仰が心の内から消え去っているではないか、と指摘されているのです。「信仰が心の内から消え去る時」とは、どういう時か、と申しますと、“イエス様が共に居てくださる”という思いが揺らぐ時のことを言います。

では、この時、弟子たちは、どのように行動すべきであったのでしょうか。彼らは、イエス様が共に居られることに、依り頼む必要がありました。眠っておられるかどうか問題外であったのです。共に居て下さっているだけで、十分でした。歴史に、“もし”という言葉はあり得ないことですが、もし、この突風と大波とによって舟が沈みそうな事態になっても、弟子たちが、イエス様が共に居られることを心に刻み、持っている航海技術を駆使して、嵐に向かって舟を進めていたら、嵐の湖を乗り切れたであろうと、思われるのです。そして、その場合には、イエス様に、奇跡を起こして頂くことも無かったのです。しかし、それでは、イエス・キリストを信じていない人と同じではないか、という反論があるかも知れません。けれども、キリスト者と無神論者との間には、天と地ほどもの違いがあります。まず、イエス様が共に居られることを信じて忍耐する者には、イエス・キリストの保証があります。それ故、常に平安で満たされ、恐れと不安に陥ることはないのです。そして、どんな窮地に陥っても、イエス様に救いを祈り求めることが出来るのです。

一方、無神論者は、自分の力だけが頼りです。保証はどこにもありません。それ故に、恐れと不安に取りつかれます。そのような心の状態で、着実にものごとが運ぶとは、考えられません。その上、窮地に陥った時、祈りを捧げる助け主が存在しないのです。それは、本当に、心細く、筆舌に尽しがたい苦しみでしょう。

私たちも、共に居て下さる主に感謝しつつ、備えられた道を、迷うことなく前進したいと願うものです。

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