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律法を成就する

律法を成就する
大坪章美

マルコによる福音書 5章 17-20節

5章17節は、「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と言う、イエス様の言葉で始まっています。イスラエルの民が、父祖の族長時代から代々受け継いできた「律法と預言者」について、イエス様は、「これを、廃止するためではなく、完成するために、わたしは来たのだ」と、仰ったのです。イスラエルの人々にとっては、聞いただけで、気が遠くなるほどの、前代未聞の衝撃的な言葉、人間として、口に出してはならない言葉に聞こえたことでありましょう。

長いイスラエルの歴史の歩みの中で、「律法は、神が顕されるところ、神との出会いが起きる場所」と崇められてきました。これほど大切な「律法と預言者」のことですから、その扱いについても、重要な勧めがなされます。19節です、「これらの最も小さな掟を、一つでも破り、そうするようにと、人に教える者は、天の国で、最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で、大いなる者と呼ばれる。」と、言われました。

ここまで、読み進めて参りますと、私たちには、疑問が生じて来ます。著者マタイは、イエス様が、「律法と預言者」の大切さについて語られたことを記している、ということは理解できるのですが、私たちは、聖書の他の個所で、イエス様が、律法の掟に違反した罪で、律法学者や、ファリサイ派の人々から咎められ、罪人扱いされ、遂には十字架の死に追いやられてしまった、という事実を、知っているからです。

私たちの疑問と申しますのは、イエス様ご自身が、「律法や預言者の最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」と仰って、律法を守り行うようにと教えて下さっている事と、イエス様が実際に行動された事が、矛盾しているように見えることです。律法に忠実であるという点では、律法学者やファリサイ派の人々が、優っているのではないかとさえ、思われるのです。

しかし、ここに、私たちの誤解があります。今日、最初にお読み頂いたイエス様のお言葉を思い出してみましょう。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成する為である。」と言われたのです。そして、「完成する為」という言葉は、「成就するため」という意味を持っていることをお話ししました。と、いうことは、律法が神様からイスラエルの民に与えられてから千二百年余りの間、それが成就したことは無かったのです。

主なる神様は、アブラハムに約束されました。創世記22章18節です、「地上の諸国民は、すべてあなたの子孫によって祝福を得る。」と、アブラハムの子孫によって諸国民は祝福を受けると約束されたのです。そして、マタイによる福音書1章1節の系図を思い出しましょう、アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図、と記されています。このイエス・キリストが、マタイによる福音書28章19節で命令されました、「あなた方は、行って、全ての民を私の弟子にしなさい。」という命令です。これにより神様がアブラハムに約束された「地上の諸国民は、あなたの子孫によって祝福を得る」という契約が成就したのでした。旧約において、「律法と預言者」とは、イスラエルの民に告げられたに過ぎなかったことなのにイエス様によって、諸国民の救いとして実現したと言うのです。最後にイエス様は、仰います、「言っておくが、あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、あなたがたは、決して天の国に入ることができない」。イエス様は、十字架にかかられる前夜、弟子たちに言われました。ヨハネによる福音書13章34節です、「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい」というご命令です。

マタイは、イエス様の律法の成就について語っています。それは、イエス様に従う者に、神のご意志を行うことを可能にします。そして、それは、イエス様に従うことへと引き入れられたすべての人において、「律法が意図することすべて」が起きるためなのです。

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