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御心を行おうとする者

御心を行おうとする者
大坪章美

ヨハネによる福音書 7章 14-24節

“仮庵の祭”は、ユダヤ人が秋の収穫を祝う祭でありました。その祭りも半ばになった頃、イエス様は、神殿の境内に上って教え始められました。仮庵の祭りは、8日間続きましたので、4日目頃のことであり、イエス様は突然、公に姿を現されたのです。これは、旧約聖書の預言が成就する為でありました。マラキ書3章1節には、次のとおり記されています、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」。

イエス様は、神の使者として、突如、神殿に上られたのです。イエス様の教えを聞いたユダヤ人たちは、驚きました。15節には、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう。」と言った、とあります。イエス様の答えは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」と仰いました。

続けて、イエス様は言われます、「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」。即ち、「イエス様の教えが神からのものだと分かる者」こそが、“御心を行う者”であり、また、「御心を行う」とは、“神に従うこと”と語っておられるのです。私達の場合は如何でしょうか。私達にも、人間の権威を振りかざすユダヤ人達のように、自分の栄光のみを追い求める姿があるのではないでしょうか。イエス様が、「わたしの教えは、わたしをお遣わしになった方の教え」と仰ったように、イエス様をこの地上に“お遣わしになった方”がおられます。イエス様は、父なる神様が地上にお遣わしになった、御独り子であったのです。この事は、父なる神様の救いの計画を実現させるためでありました。父なる神様はその独り子、イエス・キリストが人類の全ての罪を背負って、身代わりとなって、十字架にかかり、死ぬことを求められたのです。

イエス様は、モーセと律法について語られました、19節です、「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちは誰もその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」イエス様は、ユダヤ人が律法を守っていない決定的な証拠を出されます。22節で、イエス様は、このように仰っています、「然し、モーセは、あなたたちに、割礼を命じた。だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している」。イエス様は、言われます、“割礼により、小さな赤ん坊が神と人との契約の中に入ることは、安息日遵守の要求より大きい。同様に、病の人の全身を癒すことは、安息日遵守の要求よりも大きいはずである”。イエス様には、例え、その日が安息日であっても、人がこれ以上、助けも無く希望も無い状態で放置されることを許すことは、考えられない事であったのです。然し、ユダヤ人たちや、祭司長、律法学者たちは、神が遣わされた方・主イエスを殺そうと謀ります。そして、時が来て、イエス様は、ユダヤ人たちや異邦人たちの手にかかり、私たち人間の全ての罪を背負って下さって、十字架上の死を遂げて下さいます。また、それから三日目の朝、父なる神様は、イエス様を、墓の中から復活させて下さいました。主イエス・キリストの父なる神様が、このイエス様の十字架上の死を実行して下さったということは、父なる神様の人間に対する救いの計画の実現でありました。イエス様は、“イエス様の教えを神からのものとして聞き、それに従う者”が“御心を行おうとする者”であると仰いました。然し、ユダヤ人たちは、御心を行おうとはしませんでした。イエス様の教えを、神からのものとは考えず、イエス様の律法違反を糾弾して死刑を要求するだけでした。

私達は、イエス様のお導きがなければ何事も為し得ません。神の御心を行うこともできません。私達人間の力で、御心を知ることはできません。神様の御心を知り、それを行う為には、イエス様に示して頂く以外には方法はないのです。そしてイエス様が御心を示して下さる所が礼拝なのです。私達が礼拝において御言葉を聞き、祈り、聖書に親しむ中で、神様の御心が示され、それを行う者となっていくことが出来るのです。

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