目を覚まして祈っていなさい
大坪章美
マタイによる福音書 26章 36-46節
過越の祭の夜、イエス様は今、最後の晩餐を終えられ、11人の弟子たちを伴って、オリーブ山へ歩いて来られたところでした。36節には、「それからイエスは、ゲツセマネという所に来て『わたしが向こうへ行って、祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」と記されております。イエス様は、「その時、悲しみ、悶え始められた」とあり、また「わたしは、死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に、目を覚ましていなさい。」と仰いました。
「死ぬほどの悲しみ」とは、悲痛の極みであります。イエス様の目には、はっきりと見えていました。しばらくすると、この場所に多くの祭司長や律法学者、長老達が遣わす群衆が押し寄せ、イエス様は捕らえられるであろう、悪意の裁判にかけられた後、多くのユダヤ人達や異邦人たちの前で、非難され、苦しみのうちに、十字架上の死を遂げることになるであろうことが。
イエス様は、父なる神に祈られました、「父よ、できることなら、この杯をわたしから、過ぎ去らせて下さい。」“この杯”とは、“苦しみ”を意味します。それも、“死の苦しみ”“十字架刑による死の苦しみ”なのです。
イエス様は、まことの神の御ひとり子であられました。その独り子に、父なる神様が今、人類の全ての罪を背負って、身代わりになって、十字架にかかって死ぬことを求めておられるのです。そして、祈りの終わりは、次の言葉でした、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」。これは、神への服従の祈りです。イエス様が、この祈りに到達されるまでには、激烈な信仰の戦いがありました。弟子たちは、イエス様が、あのように苦しみ悶えて、ご自分の身に起きる十字架の死に直面し、ひれ伏し祈っておられた間、なんと眠り込んでいたのです。しかし、イエス様は、眠り込んでしまったペトロたち3人にも、決して非難の言葉は向けられません。むしろ、イエス様は、「心は燃えても、肉体は弱い」と、罪の力に抗えない人間の弱さを、嘆かれているのです。イエス様は、2度目に奥へ進んで祈られました。「父よ、わたしが飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」イエス様は、父なる神の御心を受け入れられたのです。「その杯は、飲まなければならない」と。「再び弟子たちのところへ戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。」と43節には記されています。イエス様は、ペトロたち3人の弟子たちに、もう2度も、「わたしと一緒に、目を覚まして祈っていなさい。」と求めておられたのです。私たちは、イエス様の、「わたしと共に目を覚まして祈っていなさい。」とのお求めにも係わらず、人間の弱さの故に、目を覚まして祈っていることが出来ず、眠り込み、祈りを失ってしまう者です
イエス様は、3度目の祈りのために、奥のほうへ進まれました。祈りの後、弟子たちのところへ戻ってこられたイエス様は、言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。」と。この時イエス様は、神の御心に従い、神の定められた“杯”を飲み干す決心をされていました。もう、イエス様のお心は、固まっていました。しっかりと、十字架への道を歩む決心をされていました。弟子たちに向かって、力強く、言われました、「立て、行こう」と。
この日の午後、イエス様は、ゴルゴタの丘の上で、私たち人間の罪と苦しみを全て背負われて、十字架上の死を遂げて下さいます。そして、3日目に、父なる神によって、復活させられるのです。この復活により、イエス様は、“死”と“苦しみ”に勝利されるのです。神の御心こそが行われますように、との祈りによって信仰の戦いに勝利し、十字架の死と復活の道を歩み通された主イエス・キリストが、今私達に「目を覚まして、祈っていなさい」と語りかけておられます。イエス様は、私達を、この祈りに招いて下さっているのです、「目を覚まして祈っていなさい」、「御心が、地にも成りますように、と祈りなさい」と。祈ろうとしても祈れない、自分の思いに捉われてしまう、私達を、イエス様は、十字架と復活の恵みによって常に赦し、新しくして下さり、この祈りに招いていて下さるのです。