過去の説教

信仰によって

信仰によって
大坪章美

ヘブライ人への手紙 12章 1-11節

この手紙が書かれましたのは、紀元80年から96年の間、丁度、第11代ローマ皇帝ドミティアヌスの在位期間中のことです
最初の読者たちの教会は、恐らくはローマにあって、ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者の群れでありました。彼らは、その時、厳しい迫害を受けており、その迫害の嵐の中で、先頭に立って下さるイエス様を仰ぎ見ながら、望みと忍耐とを持って、前進するようにという勧めを、この著者はしています。
ドミテイアヌス皇帝の厳しい迫害を受けていた教会の信徒たちは、極めて不安定な状態にありました。その人たちは疲れ切っていました。その膝は、わなないていました。イエス・キリストに対する信仰を貫き通せるかどうか、の危機に直面していたのです。彼らの、疑い、迷いに対して、著者は、読者たちが、揺るぎないものと考えている、旧約聖書の権威から説き明かして、キリスト教信仰を正しく語り、元気をだすように、励ますのです。
12:1節は、「こういうわけで」という言葉で始まっています。「こういうわけ」が、何を指すかと申しますと、前の章、11章で話しをしてきた、「信仰の力の確かさ」を指しているのです。

11:1節が伝えようとしていることは、、「信仰とは、何人ものキリスト者によって望まれている希望を下から支える土台であって、今は見えないけれど、やがて神様が明らかにされるご計画を、証拠によって納得すること」であるということになります。そして、この手紙の著者は、これらの、証拠によって納得する信仰によってこそ、この世の歴史が、今は見えない神のご計画に向かって進んでいることが分かる、と言っています。

著者は、11章を通して、旧約における信仰の英雄を列挙してきましたが、このことを、12:1節では、「こういうわけで」という言葉で繋いでいます。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や、絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を、忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、勧告をしているのです。著者の感覚では、11章で語られた旧約の過去の英雄たちは、今や競技場の見物席の上から、緊張に満ちて、競争の結果を待ち望んでいるのです。

一方で、キリスト者たちは、競技場のグラウンドの中のスタート台に立っているのです。キリスト者は、みな、この競争に参加しなければなりません。忍耐強く走り抜くのです。私たちランナーは、出来る限り身軽な身なりをします。不要な重荷は、一切、身につけません。体にまつわりついて、その自由を妨げるような衣服は、何も身に付けない方が良いのです。この手紙の宛先である信徒たちへ、著者は、励ましの言葉を送ります。「あなたがたが気力を失い、疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちの反抗を忍耐された方のことを、良く考えなさい」と教えています。確かに、イエス様に負わされた試みは、他の誰に対するよりも重いものでした。中でも、最も心が痛むのは、身体的な苦痛、鞭打ちや十字架上の渇きなどよりも、罪人の反抗でした。罪人は、自分たちを救うために来られた神の独り子、罪無き者を拒否して、最後には、憎しみの頂点で、十字架にかけてしまったのです。

著者は、「あなたがたは、まだ罪と戦って、血を流すまで、抵抗したことがありません」と述べています。信仰の栄冠を目指して競争を始めたのですが、今や、生死をかけた、罪との真剣勝負に変わってきています。ここで話されている“罪”とは、「信徒たちを、神のご意志から離れさせようとして、信仰告白を放棄させようとすること」です。

こうして、私たちキリスト者は、旧約の多くの英雄たちが、証人としてまるで雲のように大勢、観客席から見守る中を、私たちに与えられた信仰のコースを走っているのです。キリストを見つめて、誤り無く走り終えて、「義という平和に満ちた実」を結ぶことができる人は幸いです。

そして、ゴールに達するまでに遭遇する様々な苦難や迫害は、やはり、信仰の試みなのです。しかし、信仰の試みには、観客席に座っている多くの証人たちが証言し、励まし、応援してくれています。私たちに、いつも有効なのは、信仰の導き手としてわたしたちの先頭に立って目標に導いて下さる方、イエス・キリストから目を離さないことです。そして、それが出来るのは、これまで多くの信仰の英雄が証拠として残してくれた、「信仰によって」なのです。

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