過去の説教

直ちに、ひたすらに

直ちに、ひたすらに
大坪章美

ルカによる福音書 9章 57-62節

イエス様のガリラヤにおける伝道も、終わりに近づいた頃、イエス様は弟子達3人を連れて高い山に登られ、栄光の御姿に変えられました。この山の上での御姿の変容を境にして、イエス様はエルサレムへ向かう決意をされるのです。一行はエルサレムに向かって進んで行きます。その時、先頭を歩くイエス様に対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人が居たことをルカは記しています。マタイの場合はルカと違って、この人が律法学者であったことを明らかにしています。この律法学者の申し出に対して、イエス様は、実に素っ気無く、答えられました。58節です、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には、枕する所もない」と言われたのです。律法学者の安定した社会的地位と財産を捨てて、枕する所も無い不安定な放浪の生活を甘んじて受ける覚悟があれば、イエス様の弟子になることは出来たのです。が、しかしそれは実現しませんでした。
 そして、三人目の人がイエス様に言いました、61節です、「主よ、あなたに従います。しかし、まず、家族にいとまごいに行かせて下さい」と申し出たのです。
イエス様は、その三人目の人に、「鋤に手をかけてから後を顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。「鋤に手をかけた」つまり、「イエス様にお従いすることを決意した」以上、真直ぐに前を見て、一直線に進まなければならないのです。不用意に後を振りかえる者、つまり、神の国の救いを目標にしながら、この世の栄華に目を奪われるような者を指して、イエス様は仰るのです、62節です。「そのような人は、神の国にふさわしくない」と、警告されました。あらゆるためらいは、イエス様と共に働くことを妨げるのです。イエス様にお従いするということは、直ちに、ひたすらに行うことが求められているのです。
 旧約の預言者エレミヤは、エレミヤ書4:3節で、更に具体的な、主なる神の命令をユダの民に伝えています。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」と命令しています。主なる神様は、南王国ユダに住むエルサレムの民に命令されるのです。主なる神様の、エルサレムに住む民への悔い改めの要請です。この、主なる神様の言葉を、その口に預けられたエレミヤは、それこそ、必死で、この神の言葉を語ったに違いありません。何故なら、ホセア書10:12節には、「新しい土地を耕せ。主を求める時が来た」との預言が記されています。“新しい土地”とは、これまでのカナンの先住民が崇拝した異教の神々やバアル神に汚されていない、新しい土地を、心の中に耕す事でした。然し、紀元前722年、北王国イスラエルはアッシリア軍によって首都サマリアを蹂躙され、失われた10部族と呼ばれる結果になってしまったのです。エレミヤは、この北王国イスラエルの滅亡の事実を知っていました。それだけに、自らが口にする預言の言葉、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」との神の命令を、南王国ユダの民に告げる声には、力がこもっていました。
 この「あなたたちの耕作地を開拓せよ」との預言の言葉は、イエス様に従う覚悟が出来ている三人目の人に対して、イエス様が、「鋤に手をかけてから、後を顧みる者は、神の国にふさわしくない」と告げられた時に、意識されていたかどうかは、聖書に記されておりません。しかし、ホセアの預言も、エレミヤの預言も、ご存知であったことは明らかです。そして、ホセアの預言に従わなかった北王国イスラエルが、滅ぼされ、失われた10部族になったこと、また、エレミヤの預言も南王国ユダのイスラエルの民に聴き入れられることなく、神の審判によって、紀元前587年、南王国ユダはバビロニアによって滅ぼされてしまったのでした。
 従って、「鋤に手をかけてから、後を顧みる者は、神の国にふさわしくない」と告げられたイエス様のお言葉は、緊張感を持ったものでした。神の預言の言葉を軽んじて、二つの王国が滅ぼされた事実の上に立っていたからです。イエス様に従おうとする者は、ためらいは許されません。直ちに、ひたすらに、行うことが要求されるのです。

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