過去の説教

信仰を神の御前で持つ

信仰を神の御前で持つ
大坪章美

ローマの信徒への手紙 14章13-23節

詩編105篇の1−15節は、歴代誌上16:8−22節に引用されています。歴代誌16章は、ダビデが主の契約の箱をエルサレムに迎え入れた時の感謝と讃美を記した個所です。105篇の7節では、「主はわたしたちの神、主の裁きは全地に及ぶ」と歌われています。主なる神は父祖たちと契約を結び、父祖たちに嗣業を約束されました。その契約は、あらゆる時代と場所とに当てはまります。それは、主なる神の裁きが、全世界に亘って、行われるためです。詩編105篇の作者は、あらゆる時代と場所とを通して、主なる神の裁きが、全世界に亘って行われると預言しています。それなのに、パウロは、ローマの信徒への手紙14:13節で、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように、決心しなさい」と、ローマの信徒たちに命じているのです。当時のローマの集会には、明らかに少数派と見られる一握りの人々が“肉食を拒否”し、そしておそらく“ぶどう酒をも『汚れたもの』として断って”いました。この少数派と見られる一群の人々とは、おそらくユダヤ人キリスト信徒たちの群れではなかったかと推定されます。ところが、これらの禁欲グループの存在に対して、多数派が、この少数派を、迷信に捕らわれた「信仰の弱い者たち」として軽蔑し始め、また、少数派の禁欲グループでも、多数派のだらしない生き方を非難する、といった、対立関係が生じたことから、集会の交わりを危険に陥れていたのです。パウロは、この二つのグループを、どのように調和させようとしているのでしょうか。彼は、二つのグループが、集会の中で、どちらも、互いを認め合うことを根本の願いとしています。一方の、“強い者たち”は、弱い者たちのことを、「彼らのキリスト教は、自由の喜びを知らない」と裁き、他方の“弱い者たち”は、強い者たちのことを、「彼らのキリスト教には、厳しい真剣さが足りない」と互いに裁き合っているのを、パウロは、やめさせようと苦心しています。そして、これ以降は、特に“強い者たち”に対して語りかけるのです。パウロは、さらに具体的な情景で語ります。例えば、強い者たちが肉を食べているところを、弱い者たちが目にした場合、あるいは、もっと極端に、強い者が、弱い者を家に招いて、肉のご馳走を出したとしたら、弱い者たちは“思い悩む”、つまり、弱い者たちの良心が、窮地に追い込まれるのです。二つのグループが、兄弟としての交わりを維持するためには、まず、強い者たちの方が、何を食べても良いのだ、という彼らの自由を、弱い者たちのためにあえて行使しない、という思いやりを持つべきである、とパウロは主張しているのです。そして、22節以下で、パウロは結論を述べ始めます。「あなたは、自分が抱いている“確信”を、神の御前で、心のうちに持っていなさい」と命令しています。ここで、パウロが宣べた“確信”という言葉は、もともとの言葉は、“信仰”という意味です。ですから、この個所の直訳は、「自分が抱いている“信仰”を、神の御前で、心のうちに持っていなさい」という命令になります。そして、次にパウロは、語る相手を変えて、弱い人たちに向かって宣言します。23節です、「疑いながら食べる人は、確信に基づいていないので、罪に定められます」と言っています。つまり、信仰が弱くて、肉を食べたり酒を飲んだりすることに抵抗を感じている人たちが、強い者たちが肉を食べ、酒を飲むのに引きずられて、同じように飲み食いすることは、心の中に、やましさを生み出すだけである、と言っているのです。このように、強い者が、自分たちの自由を控え目にすることにより、信仰の弱い者たちも罪に陥る危険を免れ、互いに裁き合うことも無くなる、とパウロは教えているのです。そして、このことによって、詩編105篇の作者が7節で祈っていた、「主はわたしたちの神、主の裁きは全地に及ぶ」という祈りが実現するのです。時代と場所とを問わず裁きを下されるのは神のみなのです。そのためには、強い者も、弱い者も、信仰を神の御前で、心の内に持っていなければならないのです。

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