過去の説教

主にある一つの思い

主にある一つの思い
土橋 修

 

フィリピの信徒への手紙 4章1-9節

先に(2:14〜)パウロの名脇役としての、二人の弟子テモテ・エパフロディトを紹介しました。今回は教会内の女性信徒二人の名が、冒頭に挙がってきます。

それはエポディアとシンティケの二名です。フィリピ教会は使徒言行録16章にあるように、パウロの第二次伝道旅行で、彼ら一行が小アジア西端のトロアスに着いた一夜、一人のマケドニヤ人がパウロの夢に現れ「来りてわれらを助けよ」と求めるのを聞いたことに始まります。行き着いた所がフィリピでした。そこでの最初の受洗者はルディアという、紫布の商人でその信仰深さと敬虔さは、後々の教会のよい伝統となりました。

名を挙げられた二名の女性は、ルディアの信仰を受け継いだ有力な信徒と思われます。詳細は不明ですが、残念ながら二人の名の下に各々グループが生じ、互いに対立・反目しあう仲となっていたようです。恐らくエパフロディトの教会報告の中で、パウロは耳にし心を痛めていたのでしょう。パウロの「勧め」は、両名各自に同様に与えられています。彼は各自の信仰を思い計りつつ、両者間に生じた反目の関係を思い、どんなに心を痛めながら「勧め」をなそうとしたかが推察されます。この勧めは高みから、権力的に語るものではありません。英語訳では「please I beg you」とあります。辞を低くして「乞い」「嘆願」して、彼女ら各々の信仰に訴えるのです。

それに止まらず、パウロは「なお、真実な協力者よ」と、周囲の信徒たちにも、和解の協力を「お願い」しているのです。「協力者」とは「我と軛(くびき)を共にする者」のことです。宣教の労苦を共に担い合う者として、教会員ひとりひとりに協力を懇願しているのです。更に視野を広め「命の書」に記されている他の協力者たちを証人として引き合います。斯かる先輩者たちとも彼女らは劣らず、福音を共に戦って来たのではないかと訴えています。

この「勧め」は、寧ろ「乞い」「願う」です。パウロの目的は、「主において同じ思いを抱きなさい」ということにあります。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」(2:21)の忠告が思い出されます。パウロは自分の身に照らし合わせて、過去に経験した苦難の様々を思い起こしています。そして結局は「一つ霊によってしっかり立つこと」「心を合わせて福音信仰の戦いに立ち向かうこと」(1:27)。また、「「あらゆる名にまさる名―イエス・キリストは主である―」の御名のもとにひざまづく」(2:9-11)こと。最終的には「わたしの本国は天にあり」(3:20)の希望に生きること。ここに立ち帰る信仰が、「主において同じ思いを抱く」ことに尽きるのです。

三度目の「喜びなさい……喜びなさい」が、ここに発せられます。そこからまた、諸々の勧めのことばが積み重ねられます。「重ねて言います。喜びなさい」の「重ねて」は意味深長です。それは、ここまで言われても猶、喜びを忘れ躓きを繰り返すことが多いからです。よくよく「主にあって一つ思い」に、しっかり立つことが求められます。

しかし、究極に於いて「人知を超える神の平和が、あなたがたの心を考えたとき、キリスト・イエスによって守る」との約束は揺るぎなきメッセージです。ここで言う「平和」は、寧ろ「平安」の意が強く、戦争と平和或いは和解と言った表現より、意味深いものです。キリストが言われた「私の平和、世が与うるものではないもの」(ヨハネ14:27)です。「人間の全ての工夫、計画にまさる」ものとしての平和なのです。「人知を超える」のことばが強められるゆえんです。9節の「平和の神はあなたがたと共におられます」も同義です。

教会はこの神に召された者の集いなのです。そこに神の平和が生まれ、世の思い煩い(分裂)は解消し、十字架の主への感謝と祈りが一つ思いとなり、喜び喜べの命の歩みが生まれてくるのです。「人知を超える神」にハレルヤ!

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