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驚くほどの恵み

驚くほどの恵み
平田 久

ルカによる福音書 18章14

この福音書の箇所はよく知られているたとえ−ファリサイ派の人と徴税人−である。二人は祈るために神殿に行く。敬虔な、そして信仰深いファリサイ派の人は祈る。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」もう一人の徴税人は祈ることさえむずかしい。遠くに立ち、自分の胸を打ちながら言う、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(13節)。

イエスの話されるたとえには二つのタイプ、私たちがすることと神がすることの二つ。この章の初めは裁判官を悩ますやもめのたとえ。イエスは、一つは「気落ちしないで、絶えず祈るべきである」と教えるためのたとえ。もう一つのたとえは私たちが何かをすることを勧めるためではない。イエスの神はこうであるということをあらわしている。例えば一匹の羊を探すたとえ、放蕩息子のたとえなど。それは私たちが描く神のイメージを変える。私たち・が何をするのではなく、イエスの神はどういうお方であるかを示す。

ここはそれ。二人が礼拝に教会にくる。この場合にたとえが教えることは、二人が何をするかでなく、神が何をすることである。このたとえで、ファリサイ派の人が祈るのを見る。「神様、わたしはほかの人のようでないことを感謝します」という。他方、徴税人が祈りをするめを見る。「神様、ないようなわたしを憐れんでください」。

このメッセージ何はでしょう。物語は人生訓であれば私たちにはよく分かると思う。へりくだった者として生きよう、威張らない、謙遜な生活をしようという物語。こういう教訓はどこにでもある。子どもたちは多分学校の道徳で学ぶ。どこにでもある平凡な物語。

しかし私たちはそのことのために教会に来るのではない。考えて見たい。徴税人はへりくだろうと努力したのではない。イスラム教では祈りをするとき地面に額をつけて祈る。立っている人間が地に這いつくばることを意味する。徴税人はローマのために隣人から税金を徴収し、ユダヤ人から徹底的に嫌われ、罪人と呼ばれ、土地に這いつくばるようにして生きている。いつもひどい目に会うのでどうしても助けがいる。神の必要である。神なしにはやっていけない。しかし何をどう祈るかを知らない。黙ってうつむくだけ。

人にはそれぞれ心に隠れた、言えない秘密がある。教会では周りの人を見るとよく見える、信仰が深く、立派に見える。自分は神から離れていると感じる。祈りの時が来る。どういう言葉を使うか分からない。うつむいてしまう。

福音は私たちがどうあろうと、何者であろうと関係なく神の方から私たちに来て、神の方から愛の手を差し出し、私たちを祝福してくださることである。私たちが何かをするのでなく、神が私たちにしてくださる、これが良いニュース、福音です。もし私たちの生活が恵まれ、好きな聖句が言え、祈りがたやすく言え、使徒信条も暗記できておれば、神からの助けは要らないのではないか?神の助けでなく、神の贈りものに感謝する。「神様、私はほかの人のように空しい思いをもち、取り乱し、不安な者でないことを感謝します」。信仰はしっかりしている。こういうときに神は何をすることができる?

しかし私たちが空しく、取り乱し、不安な者であればどうでしょう?神なしには、神の贈り物を受けなければやっていけない。神の助けなしには生きていけない。私たちはそれを恵みという。神は恵みを必ずくださる。神のために何ができるかという心配をする必要はない。私たちのすることに左右されない、神には自由な恵み、驚くべき恵みがある。

私たちがしいる礼拝、祈り、讃美歌、説教、感謝、すべては恵みを崇める罪人のためです。「主は打ち砕かれた心の傷を癒し、その傷を包んでくださる。・・・わたしたちの主は大いなる方、御力は強く、英知の御業は数知れない」(詩編147:3、5)。

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