過去の説教

わたしが持てるもの

わたしが持てるもの
土橋 修

使徒言行録 3章1-10節

教会暦は一年を半等分します。「主の半年」(降誕祭―聖霊降臨祭)と「教会の半年](後半の半年)です。いま「教会の半年」に足を踏み入れ、わたしたちは原始教会の初めに思いを馳せ、彼らの信仰に立ち帰りましょう。御名の下に心を一つにし、信仰と愛の交わりの中に、宣教の業へと心を新たにしたいのです。

今朝のテキストは原始教会最初の宣教記録です。出来事はエルサレム神殿の正門大鳥居とでも称する「美しの門」前で起こりました。時は午後三時の祈りの時。ぺトロとヨハネが神殿に詣でようとやって参りました。この頃の彼らの群は、まだユダヤ教の律法に従った儀礼を、行おうとしていたことが読みとれます。

既に、生まれながら足の不自由な物乞いの男が、「運ばれてきて、門のそばに置かれた」とあります。それはあたかも、荷物を運ぶかの如くつれてこられ、荷物を放り投げるようにそこに置かれたという表現です。人としての人格も人権もそこでは読みとれません。その上彼も物乞いの生活が身についていました。彼は既に「四十歳過ぎ」と記されています(4:22)。

男はさっそく通りがかりの使徒二人に目をつけ、施しを求めます。これに対するぺトロの返事は次の如くです。「金銀は持ち合わせないが、わたしが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」これには物乞い男の方で戸惑いしたようです。しかし注目すべきは両者間の目線の動きです。最初男は使徒ら二人を「見て」(2)声をかけます。二人の懐具合を伺っています。対する使徒らの目は男を「じっと見て」(4)というのは、「注目」「凝視」の目を意味します。男は当てが外れた思いと、新しい期待の半々で、使徒らを「見つめ」(5)がえします。この「見つめ」も「注目」「凝視」の目で、男の心の変化の程が見られます。

初めの男の「見る」は、物乞いの習慣的な目つきです。使徒らの目には「神の愛と憐れみ」が込められた目つきです。そして見返す男の目つきには変化が見られます。不安の中にもこの人が与えてくれるものへの、新しい期待感がそこに輝き始めたしるしです。

ペトロの返事に男のいつもの願いは殺がれました。しかし「わたしが持てるものを」の言葉の力に、彼は身も心もひかれ、差し伸べられた使徒の手を握ると、たちまちそこに奇蹟が起こりました。足は癒され立ち上がり、欣喜雀躍する様は、周囲の人々を驚かせました。しかし、最大の奇蹟はなんと言っても、彼が神を賛美するその様を見たことにあります。

この奇蹟の源は「イエス・キリストの名」の力にあります。「名は体を顕わす」とあります。「名」は正体(実体)を紹介し、啓示するものとも言われます。エルサレム神殿を建立したソロモンは言いました。「天も天の天もあなたをお納めすることはできません。この神殿など相応しくありません。しかし、神の名をとどめる所、祈る所はこの宮のほかありません」。(列王上8:27−29)と。嘗て三度イエスを否認し、侮改めて使徒とされたぺトロの信仰巡礼は、聖なる赦しの神を心中確かに持するところがありました。「わたしが持っているもの」の言には、体験を通しての権威が籠もるものです。真実なぺテロの信仰告白と宣教への迫力に、心打たれるものがあります。

この奇蹟は「たちまち」(9)起こりました。わたしたちの心の悩み、思い煩いは複雑怪奇です。しかし聖霊なる力が働く時、あらゆる人間の疑問詞は「たちまち」一挙に雲散霧消します。「あるものの胸に宿りしその目より、輝きわたる天地(あめつち)の色」との歌が添えられた年賀状を手にした内村鑑三は、これを今年第一等の年賀状と称しました。「イエス・キリストの名」が持つ無限大の神の力こそ、奇蹟の源であります。その

「名」を「我持てり」と言い切ったぺトロの信仰にあやかりたいものです。

これから踏み出す「教会の半年」を通して、ぺトロが取り戻し、持ち続けたこの信仰を、御一緒に追い求めて行きたいと願って已みません。

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