過去の説教

アッバ、父よ

アッバ、父よ
三枝禮三

ガラテヤの信徒への手紙 4章6-7節

〈4:6〉「御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実」とあります。「送ってくださった」は二つのことを指します。一つは使徒言行録2章のペンテコステの聖霊降臨の歴史的出来事。もう一つは聖霊が一人一人の心の中に送られてきた内面の出来事。ここでは、特に後者に重点を置いて一人一人の内側の出来事として語られています。しかし、聖霊を受ける受け方が分からなくて余計なことを始めたガラテヤ教会の人々にパウロは言っています。「あなたがたが‘霊’を受けたのは律法を行ったからか、それとも、福音を聞いて信じたからか」(3:2)そうだ、聞いて信じたからではなかったか、と。聖霊を一人一人が受けるのに必要なのは、聞いて信じることだけであります。

〈アッバ、父よ〉(αββα δ πατηρ)‘アッバ’は「父」を意味するアラム語。“ホ パテール”は同意語を表わすギリシャ語。二つを合わせて「アッバ、父よ」です。‘アッバ’はもともと幼児が家族内で父親を親しみを込めて呼ぶ呼び方で、「ちゃん」に近いでしょう。ですからイスラエルではその呼び方を神に用いることは決してありません。神を見た者は死ぬと言われていた世界だからです。

ところが、神に“アッバ、父よ”と、しかも十字架に架けられる前夜にさえそう呼びかけることのできる人が現われた。キリストです。天が裂けて‘霊’が鳩のように御自分の上に降って来るのを見て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたからに違いありません。“アッバ、父よ”は主イエスの上にだけ天が裂けて起った父なる神と御子との間の切っても切れないやりとりであり交流です。弟子たちがヨハネの弟子たちのように祈りを教えて下さいと言ったとき、主イエスはヨハネさえも教えられなかった“アッバ、父よ”と神を呼ぶ祈りを口移しに教えたに違いありません。「天にましますわれらの父よ」は、ただキリストにおいて私たちにも可能となった“アッバ、父よ”に他なりません。

〈叫ぶ御子の霊〉‘叫ぶ’は現在形で、その動作が繰り返されること、つづくことを意味します。つまり“叫びつづける”ことです。私たちの内側に送られてきた聖霊は、私たちの状況、いや私たち自身の状態がどうであろうと“アッバ、父よ”と叫びつづけるというのです。これは驚くべきことではないでしょうか。

ルターは、ここに詳細な注釈を施して言っています。この“アッバ、父よ”は最も重症の憂鬱の直中にある我々の心の底からの聖霊の叫びである。自分の骨の髄までの罪深さに直面して絶望している心、“汝は罪人なり”と弾劾する悪魔を眼前にして神の慈悲すらも信じられなくなった懐疑で一杯の心、永劫の罰で脅す神の怒りに直面した心、キリストの臨在も救いも感じられずにむしろキリストまでが我々を怒っていて、我々は最早言葉も無く、ただぶら下がるしかないとまで思い込まされる誘惑の直中にある心、ところが、その心の底からあの叫びが起り、雲を突き抜け、天地に響き渡るのである。天使まで驚かせて、と言うのです。

もしそうなら、私たちの状態がどうであろうと、どのように祈ったらいいか分からなくとも、聖霊の叫びに倣って“アッバ、父よ”と叫ぶことだけはできるでしょう。口真似でしかないかも知れません。とぎれとぎれかも知れません。それでも今や、私たちの祈りは聖霊の叫びに背負われ、疑いと絶望の雲を突き抜けて、天地に響き渡り、天使たちまで驚かせているのです。聖霊に唱和する祈りとして次のような八木重吉の詩も私たちの“アッバ、父よ”とならないでしょうか。

〈み名を呼ぶ〉“おんちち”
○おんちち うえさま/おんちち/うえさま/ととのうるなり○てんにいます/おんちちをよびて/おんちちうえさま/おんちちうえさまととなえまつる/いずるいきによび/入りきたるいきによびたてまつる/われはみなをよぶばかりのものにてあり○もったいなし/おんちちうえ ととのうるばかりに/ちからなくわざなきもの/たんたんとしていちじょうのみちをみる

 

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