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新しい命に生きる

新しい命に生きる
土橋 修

「わたしがキリストと一体となって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかるでしょう

ローマの信徒への手紙 6章5節

先週復活祭を祝い、主の偉大な甦りの力を賛美したばかりなのに、今日突然梅田牧師先生の御入院を耳にして、私たちの心は騒いでいます。「主よ、試みにあわせ給う勿れ」と只管祈ります。そしてしっかりと復活の信仰に立ち返りたく思います。

ギリシャ正教では復活祭を降誕祭など12の大祭と区別し、別格の大祭として取り扱うようです。確かにキリストの福音は復活あっての信仰であります。十字架を通り抜け、墓からの復活を見て、勝利のキリストが存在するのです。因みに復活祭を日本文学史に紹介したのは森鴎外で、その初期訳は「蘇生祭」たったそうです。残念乍ら世話と蘇生では全く意味が異なります。

パウロはローマ人への手紙で「信仰義認」を説き、5章20節で「罪の増すところに恵みはなおいっそう満ちあふれる」と言いました。人々はその言葉尻をとらえて、「恵みが増すなら、罪にとどまるほうが良いではないか」と、やゆする如くに言い始めたのです。これに対しパウロは「決して然らず」と断言しました。そしてそこから彼は厳しく信仰の本義を語り始めます。イエスの宣教が侮改に始まったように、彼は洗礼について念を押し「キナストに結ばれるために」と説きます。「結ばれるために」は、英語のintoです。それは方向を指示し、運動の継続を意味します。キリストの中に入り続け、継続が神の力と化すまで、キリストの中に入り、キリストと共に歩み続けることなのです。自分の罪が死に、その死と共に新しい命を復活の主からいただくまでバキリストの中に入り歩み続けるのです。「終わりまで耐え忍ぶ者は救われん」です。

5節「キリストと一体になって」の表現は、接木の譬がこめられています。キリストという台木に接がれて一体となることです。イエスの賄いに死にイエスの復活にあずかり新しい命、永遠の命にもあずかれる方法です。ここで得られる「新しい命」は、目新しく新奇な、という時間的な新しさではなく、全く質を異にした絶対的で、掛け替えのない、という質的新しさを言うものです。接本により結ぶ実は、新しい実なのです。

6節から9節にかけて、同じ趣旨が繰り返されます。始めに「罪に支配された体は滅びて」、終わりは「もはや死ぬニとがない」身となります。そこには復活のキリストが支配されると告げられています。不思議なこの生死の変化は、復活の牛リストと共に起こる秘儀てす。

「人間にとって打ち破り難いニつの壁がある。一つは罪であり、他の一つは死である」と言われます。今わたしたちはキリスト・イエスに結ばれて生きる限り、この二つの壁を一度に打ち破ることがでさることになります。なんという不思議でしょう。罪の支配を脱し、キリストの支配に身を委ねることが出来る者への福音です。イエス十字架上で口にされた詩編22は、始め苦悶と恕嵯に聞こえた如くでも、後半それは希望の歌となり、「王権は主に在り」との信仰告白と変わりました。神を仰ぎ牛リストの中に、キリストと共に生きる時、新しい命が輝き始めるのです。復活信仰に生きる喜びはここにあるのです。

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