過去の説教

忍耐

忍耐
梅田憲章

天の国はからし種に似ている。

マタイによる福音書 13章24-43節

イスラエルの人々は、ローマによる厳しい支配を打ち破り、その圧制から救い出し、神の支配される天の国に生きることを期待していた。

そのような背景の中で、天の国は「ある人が良い種を畑に蒔いた。」ようなものであるというのです。そのまま育てば、何の問題もありません。しかし、「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行く」のです。神の業がひと段落すると、すぐに悪魔の業が始まるのです。神の天地創造の後のサタンのイヴの誘惑に始まり、キリストの十字架も弟子の一人ユダの叛逆に始まるのです。パウロの宣教の後に偽教師が現れるのです。僕たちが主人のところに来て言った。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」

なぜ、神が創造したこの世界にこのような悪と禍いがはびこるのですか?と口々に、批判をするのです。イスラエルの人々が、なぜローマの蹂躙を神様はそのままにしておくのですかという声がダブって聞こえてくるようです。主人の神を憎むものの仕業だと言う言葉に、「では、行って抜き集めておきましょうか」と言うのです。敵がはっきりしているのなら、直接的に悪を根絶しようとする、これが常識というものでしょう。

この毒麦とは、それを食すると、嘔吐・下痢・めまい・痺れをひきおこすのでした。そして、毒麦は大麦より、種は小さく黒いのですが,芽が出ると大麦と見分けがつかず,また根も大麦と絡まりあい、強く深く根を張るので、これを抜こうとすると、周囲のよい麦まで抜いてしまうので、抜くことが出来ないのです。しかし、穂が出始めると、麦の穂よりもひげが長く色も黒くなって、違いがはっきりし、見分けられるのです。主人は言った。「毒麦がその正体を明らかにするまで、育つままにしておきなさい。刈り入れの時、麦と毒麦を分けよう」とはなんと、知恵に満ち、確信に裏打ちされた言葉でしょうか。

よい種をまいた後に、毒麦が蒔かれるという話は、世界の避けることのできない現実であります。初代教会以来の教会の現実でもあります。いやそれだけではない、キリスト者一人びとりの心の姿であるのです。  

この時代、悪との戦いに於いて武力で勝負しようとする熱心党の人々やクムランの洞穴に身を潜め、敬虔な信徒だけからなる礼拝集団を形作り、救いの到来を待ち望むエッセネ派の人々がいました。主イエスはこれらの道を「良し」とはしませんでした。主イエスは、これらとはまったく別の道を歩んでおられたのです。主イエスは、当時「取税人・罪人」といわれ、ユダヤ人の宗教社会から締め出されていた人々を、何の隔ても無く、交わりの中に招き入れたのです。イエスは、神に敵対する人に対しても、悔い改めを待つという態度を示しているのです。悪に染まったものを抜き去るのではなく、終わりの時まで、変わることを、今か今かと待っておられるのであります。

ただ、主イエスは定められた終わりの日に、神の裁きがあることをゆるがせにはしませんでした。主イエスを仰ぎ見る人々の緊張はここに源を発するのです。この終わりの日までに一人でも多くの人を救いたい。イエスはそのことのために、今日も働かれているのです。裁きの時がまだ来ないところに神の御心の深さを見ることが出来、神の忍耐の大きさを知ることが出来るのです。私たちがこの世の悪に負けずに雄々しく生きることを神は確信し、待っておられるのです。

さらに、主イエスは天の国のすばらしさをからし種とパン種のたとえで紹介しています。神の国は、からし種のような驚くべき成長力を示し、パン種のように膨らまし、大きくする変革力を示します。この教会が、私たちが、み言葉によって創りかえられ、変容したものとなり、からし種のように、パン種のように働くことができるのです。この教会の37年の歴史がそれを証明し、いま将来に希望を見出しています。それが神の国に生きる教会の、私たちの生き方・力なのです。耐
梅田憲章

 
 

天の国はからし種に似ている。

 

マタイによる福音書 13章24-43節

 

イスラエルの人々は、ローマによる厳しい支配を打ち破り、その圧制から救い出し、神の支配される天の国に生きることを期待していた。

そのような背景の中で、天の国は「ある人が良い種を畑に蒔いた。」ようなものであるというのです。そのまま育てば、何の問題もありません。しかし、「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行く」のです。神の業がひと段落すると、すぐに悪魔の業が始まるのです。神の天地創造の後のサタンのイヴの誘惑に始まり、キリストの十字架も弟子の一人ユダの叛逆に始まるのです。パウロの宣教の後に偽教師が現れるのです。僕たちが主人のところに来て言った。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」

なぜ、神が創造したこの世界にこのような悪と禍いがはびこるのですか?と口々に、批判をするのです。イスラエルの人々が、なぜローマの蹂躙を神様はそのままにしておくのですかという声がダブって聞こえてくるようです。主人の神を憎むものの仕業だと言う言葉に、「では、行って抜き集めておきましょうか」と言うのです。敵がはっきりしているのなら、直接的に悪を根絶しようとする、これが常識というものでしょう。

この毒麦とは、それを食すると、嘔吐・下痢・めまい・痺れをひきおこすのでした。そして、毒麦は大麦より、種は小さく黒いのですが,芽が出ると大麦と見分けがつかず,また根も大麦と絡まりあい、強く深く根を張るので、これを抜こうとすると、周囲のよい麦まで抜いてしまうので、抜くことが出来ないのです。しかし、穂が出始めると、麦の穂よりもひげが長く色も黒くなって、違いがはっきりし、見分けられるのです。主人は言った。「毒麦がその正体を明らかにするまで、育つままにしておきなさい。刈り入れの時、麦と毒麦を分けよう」とはなんと、知恵に満ち、確信に裏打ちされた言葉でしょうか。

よい種をまいた後に、毒麦が蒔かれるという話は、世界の避けることのできない現実であります。初代教会以来の教会の現実でもあります。いやそれだけではない、キリスト者一人びとりの心の姿であるのです。  

この時代、悪との戦いに於いて武力で勝負しようとする熱心党の人々やクムランの洞穴に身を潜め、敬虔な信徒だけからなる礼拝集団を形作り、救いの到来を待ち望むエッセネ派の人々がいました。主イエスはこれらの道を「良し」とはしませんでした。主イエスは、これらとはまったく別の道を歩んでおられたのです。主イエスは、当時「取税人・罪人」といわれ、ユダヤ人の宗教社会から締め出されていた人々を、何の隔ても無く、交わりの中に招き入れたのです。イエスは、神に敵対する人に対しても、悔い改めを待つという態度を示しているのです。悪に染まったものを抜き去るのではなく、終わりの時まで、変わることを、今か今かと待っておられるのであります。

ただ、主イエスは定められた終わりの日に、神の裁きがあることをゆるがせにはしませんでした。主イエスを仰ぎ見る人々の緊張はここに源を発するのです。この終わりの日までに一人でも多くの人を救いたい。イエスはそのことのために、今日も働かれているのです。裁きの時がまだ来ないところに神の御心の深さを見ることが出来、神の忍耐の大きさを知ることが出来るのです。私たちがこの世の悪に負けずに雄々しく生きることを神は確信し、待っておられるのです。

さらに、主イエスは天の国のすばらしさをからし種とパン種のたとえで紹介しています。神の国は、からし種のような驚くべき成長力を示し、パン種のように膨らまし、大きくする変革力を示します。この教会が、私たちが、み言葉によって創りかえられ、変容したものとなり、からし種のように、パン種のように働くことができるのです。この教会の37年の歴史がそれを証明し、いま将来に希望を見出しています。それが神の国に生きる教会の、私たちの生き方・力なのです。

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