過去の説教

死者が復活しないなら

死者が復活しないなら
梅田憲章

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。

コリントの信徒への手紙一15章12-20節

使徒たちは誰でも、どこでも、いつでも一致して「唯一の福音、福音の中心はキリストの死と埋葬と復活」と宣べてきた。それなのに、「死者の復活などない」とそれを否定する人々がいる。そのようなことを言うと、キリスト教は土台から破壊されてしまうとパウロは言うのです。

このような復活への疑問、否定、嘲笑は当時のキリスト教を取り巻くあらゆる場面で見受けられていた。使徒言行録17章32節には、ギリシャのアテネのアレオパゴスで、パウロが人々に福音を伝えたとき「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った、とあるとおりです。

ここではキリストは神の子だから、復活することは認めてもいいけれど、死者たちが復活する、特に自分がよみがえるということに確信がもてないなどという悩みにパウロが渾身の力を込めて語る言葉に聴きつつ、キリストが死者の中から復活された、まずこのことを聖書によってはっきりと理解してみましょう。

まず復活、よみがえりという言葉です。この言葉は、地上の生がいつまでも続くということではありません。地上の命は自然界の全てがそうであるように、必ず死を迎えます。しかし、よみがえり、復活とはそこで消滅すべきわたしたちが新しい命を受け、新しくいきることを意味しています。コリントの信徒への手紙一 15章42-44節に死者の復活が書かれており「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」とあります。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活した。15章3-4節」とパウロは告げているのです。わたしたちの罪のために死なれたイエスがよみがえられた。人として生まれ、人として十字架につけられ、死んだイエスが、人としてよみがえられたのです。神が死人の中からよみがえらされたのです。

ここで罪とは法律上の罪ではなく、「神から懸け離れる」という意味です。アダムがエデンの園で中央に生えている木の果実を食べたことにより、神から、手を伸ばして命の木からもとって食べ、永遠に生きる者となることをおそれられ、追放され、罪の中を生きるものとなったのが最初です。

神は人間の罪をさばき、永遠の死に閉ざすことの代わりに、許しと命を与えることを決意されたのです。わたしたち罪人が許されるためには、十字架の死による贖い(代価を払って買い取る、犠牲をささげる)という神への手続きが必要だったのです。わたしたちの罪はそれほど大きく、神がどれほどわたしたちに裏切られていたか、神がどれほどわたしたちを愛しておられるかをうかがい知るのです。神は、人の罪のために死なれたイエスを、復活という形で示されたのです。

イエスはわたしたちの罪のために死んだ、このことがキリストの復活とわたしたち自身とを主体的なかかわりを持って、結び合わせるのです。すなわち、キリストの十字架がわたしたちのためであったように、復活もまたわたしたちのためなのです。「キリストは罪のために死なれた」(3節)だけでなく、「義と認められるために、よみがえられた。」(ローマの信徒への手紙4章25節)のです。だから、罪から解放されるのです。

イースターは主イエス・キリストがよみがえられた喜びの日です。この喜びは罪の中に生きる惨めさからの解放であり、終わりの日の裁きからの解放の喜びであります。滅びに結び付けられていたものが解放され、生きる命を受ける日となったのです。誰でも、来て、この神の力、神の許しの力を受けなさい。それが、復活の福音・よい知らせなのです。

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