偽りの無い愛

           説 教 「偽りの無い愛」           岸 敬雄伝道師

聖 書 エゼキエル書11章17~21節  ローマの信徒への手紙12章9~21節

 本日読まれました新約聖書の最初の箇所で「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、」と言っています。ここで言われている愛とは、それまでギリシャ世界などで多く用いられていたエロースと言う肉欲的な愛ではなく、キリスト教でよく使われている「avga,ph」アガペー、と言う単語が使われています。

 愛には偽りがあってはならない、愛には偽りがないのは当然な事の様に思えますが、とかく世の中で言われている「愛」と称されるものには、好意や親切の仮面の下に他人を欺いたり、あるいは自分自身すらも欺くような利己的な思いが隠れていることがあるのではないでしょうか。その様な、利己的な愛ではなく、真の愛とは、偽りがなく、更に悪を憎み、善から離れずにあるものだと言っているのです。

 その様な神様の愛をもとに、さらに限定した愛について話しを「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」と進めて行くのです。

 ここで言われている兄弟愛とは、9節で言っているアガペーに準じるように使われている「filadelfi,a|」フィアデルフィアという単語が使われています。アガペーよりやや限定された兄弟愛を指して使われるものです。

 ここで使われているフィアデルフィアと言う単語は、自分の血のつながった兄弟に対するような愛と言う意味ではなく、教会の中においての、神の家族としての教会員の中の兄弟姉妹としての愛を示すものとして使われいます。その意味で「互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と言っているのです。

 教会の中においては互いに愛し合うことが大切であると言っているのであり、その前提として悪を憎み、善から離れないことが必要だと言っているのです。さらに、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う様にと勧めているのです。

 そして、さらに勧めが続き「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」とキリスト信者である私たちは、聖霊なる神によって力を与えられ燃え上がる様の思いを与えられているならば、疲れたり怠けたりすることなく、主に仕え続けて行くことが出来ると言っているのです。さらに、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」と希望を持ち続けることによって、喜びを得ることが出来ると言うのであります。そして、苦難を耐え忍ぶように、そして希望をもって喜びを持ち、苦難に耐え忍ぶためにたゆまず祈るようにと教えているのです。

 ここで祈りの大切さと共に言われている希望とはいったい何に対しての希望なのでしょうか。それは福音に対してであり、主イエス・キリストの十字架に対する希望であり、私たちに対する神様から与えられた恵みに対する希望であります。

 私たちは、福音に対して喜び続けることによって、苦難を耐え忍んでいくことが出来るのであり、その為には絶えず祈り続けるようにと言っているのです。祈りによって力を与えられ希望と喜びを持って苦難を耐え忍んで行けとも言っているのです。さらに、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」「 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」「 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と個人に対する勧めが続くのです。

 その上で、次にみんなに対して、「 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と全体の対する勧めが続くのです。そして「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と言うのです。悪に負けないための力は悪ではなく、真逆のものである善だと言うのです。ここで言われている善の源となっているのは、神様がわたしたちに持つようにと求めている愛なのです。

 しかし、世の中において争いがあることも認めざるをおえないのです。その様な状況にあることから「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」と言い、できれば言い、強制や命令ではなく、せめて、最低限はあなたがた、教会員だけはすべての人と平和に暮らすようにと言っているのです。平和に暮らす方法として、自分で復讐せず、神の怒りに任せるようにと、自分が愛する人たちと呼びかけている人々に、勧告しているのです。それも、旧約聖書において申命記や詩編で言われている「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と言う言葉を引用して言っているのです。

 神様から与えられている愛によって私たちが働く時には、希望と喜びを持って、疲れることなく働けるのです。いえたとえ肉体的には疲れていたとしても、霊的には喜びにあふれて過ごすことが出来るのです。

 パウロの時代には身近に迫害が迫っていました。その様な中でも、愛を持つことによって迫害する者に対しても呪うのではなく祝福することが出来るのです。

 私たちは神様から与えられた真実の愛を身につけながら、その愛を実践していくことによって、この世の悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝っていくのです。