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ヨハネの証しにまさる

待降節(アドベント)第3主日礼拝 

説 教  「ヨハネの証しにまさる」 岸 敬雄牧師

              聖書 申命記18章15~19節   ヨハネによる福音書5章36~47節

 旧約聖書においても預言者に聞き従わない事が言われています。もちろんここで言われている預言者は、神様のみ言葉を正しく伝えている主の預言者のことであり、預言者の言葉を聞かないと言うことは神様に聞き従っていないと言っているのです。その様なかたくなな民を神様は忍耐して導いて下さったのです。しかし、もうどうしようもなく成った時ご自分の一人がである主イエス・キリストをこの地上へとお送りになったのです。

 イエス様が地上においでになった最初の場所は馬屋でした。馬小屋でお生まれになった時、そこに居たのは両親と馬屋の中の家畜だけでしたが、良心すらイエス様が唯一の救い主であることを知ることが出来たのです。

 初めにイエス様の誕生の証しを聞いたのは、夜の野で羊の番をしていた無学な人々でした。天に現われた天使たちが証しするのを聞いてイエス様のもとへと駆け付けたのです。

 そして知識のある人時としては、普段星のことを研究している占星学の学者であり、自分たちが何時も調べている星に導かれてイエス様も元を訪れていたのです。イエス様を証しする者として天使や星が介在していたのでした。

 しかし、イエス様がお生まれになった時、証を聞いた人々はわずかであり、その後は普通の人々に中でイエス様は人目に付くようなことはなく成長されて行かれたのでした。

 その後、イエス様のことを証したのはイエス様が洗礼をお受けになる時、自分の方こそがイエス様から洗礼を受けるべきだと言い出した洗礼者ヨハネだったのです。

 実は洗礼者ヨハネは母のお腹の中にいる時から、イエス様が母マリアの中の中におられた時に訪問された時にも喜んで動いたのでした。

 洗礼者ヨハネは、母親の中にいた時から、イエス様のことを証しする者だったのです。人としたらイエス様の直弟子たちにまさるとも劣らないイエス様に対する証し人であった言えるでしょう。

 そんな洗礼者ヨハネよりまさる証しがあるとイエス様は言われるのです。どのような証しがあると言われているのでしょうか。

 まず初めに、父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業だと言われるのです。つまり、イエス様が行っている業、救いの御業そのものが、天父なる神がイエス様をお遣わしになったと証ししていると言われるのです。

 さらに、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださると言われるのです。しかし、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。さらに、何故ならばイエス様の父であられる天父なる神は、その御言葉を自分たちにの中にとどめていないし、どうしてかと言えば、御父がお遣わしになった者、すなわち預言者のことも信じないからだと言われるのです。

 さらに聖書についても、聖書の中に永遠の命があると考えているが、それは決して間違っていないけれども、聖書にはイエス様のことを書いてあるのだと言われているのです。そして聖書はイエス様のことを証しているのだと言われるのです。イエス様が永遠の命なのだと言っても良いのではないでしょうか。

 預言者のことも信じないと言われるように、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。と重ねて言われるのです。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。とまで言われるのです。

 なぜここまで信じることができないと言われているのでしょうか。それを逆にとるならば、色々な機会を通してイエス様の証しを受けることができるのであり、私たちはイエス様のことを信じる機会が与えられると言っているのではないでしょうか。

 私たちは聖書を読むことによって、イエス様のことを信じることが出来るし、時にモーセが言った事、言い換えるならモーセ5書に書かれていることを信じることによって、イエス様のことを信じる事も出来るのです。そして、何よりも天父なる神のお言葉にとどまっていることが必要なのです。

 そして、何よりイエス様の御業を信じ、イエス様の従って行くことこそが必要なのです。私たちの救い主が私たちと同じ肉を取ってこの地上においでくださった、その喜びを新たにする事こそがクルスマスの出来事なのではないでしょうか。

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