過去の説教

イエスさまの洗礼

イエスさまの洗礼
岸 敬雄 伝道師

イザヤ書 11 章 1〜5 節:マタイによる福音書 3 章 13〜17 節

 本日読まれました新約聖書の個所はイエス様の洗礼を受けられ場面です。洗礼とは特別な儀式です。私たちプロテスタント教会では生産と洗礼を特別な儀式として秘義と考えてきました。洗礼を受けて教会員の一員となると何度も聖餐を受けることができます。教会によっても違いがありますが、札幌中央教会では、現在は、ほぼ毎月聖餐にあずかる事が出来ています。

 しかし、基本的に洗礼は生涯一度限りであります。幼児洗礼を受けられ自分で信仰告白をできる年齢になって、信仰告白式を受けられた方で自分の洗礼式のことは覚えていないとおっしゃられるかたもいらっしゃるかもしれませんが、自分の洗礼式ことを覚えていらっしゃる方は、他の方の洗礼式に立ち会うことは、特別な経験となります。なぜかといえば、自分の洗礼の時を追体験することができるからです。

 しかし、残念ながら、聖餐式の様のほぼ定期的に洗礼式を行うことは困難な状況に教会は置かれています。そのような中においてイエス様の洗礼の記事を読むことは自分たちの洗礼を思いかえすよい機会となるのではないでしょうか。
本日のマタイによる福音書のイエス様の洗礼の様子から見て行きたいと思います。

 イエス様の洗礼に当たり、その前に洗礼者ヨハネが登場してきています。彼は、荒れ野で叫ぶ者の声がする「主の道を整え、そのみちをまっすぐにせよ」と言われた人です。これはイザヤ書40章3節の言葉だと思われます。彼は悔い改めを訴えて、神様のみもとに戻るために道を整えるものと考がえられました。

 そしてそのいでたちは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていたとい聖書には書かれています。この姿は預言者の典型的な姿だといわれています。そして、いなごと野蜜を食べ物としていた、と書かれています。いなごと野蜜とは清い食べ物と考えられていていました。彼の母はエリザベトで、ヨハネは胎内にいる時からイエス様の地上への訪れを喜んでいたとクリスマス物語中で描かれていました。

 そのような洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼をヨルダン川で人々に授けているところにイエス様が訪れられたのであります。そこにイエス様が洗礼を受けるために訪れたのでありました。

 しかし、イエス様に対して、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言ったのでした。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言ったのです。それに対して、イエス様は、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とお答えになったのです。
そして、ここでイエス様がお受けになられた洗礼は何を表していたのでしょうか。私たちが受けた洗礼も確かに洗い清められて清くなり、悔い改めの意味も確かにあったかもしれません。しかしそればかりではなかったはずであります。私たちに受けた洗礼は主イエス・キリストの死と復活にあずかる洗礼でした。神様に従って生きる命を与えられたのであります。その内容は具体的にいえば、神様に忠実にお従いして人生を歩み続けるスタートを切ることになるのです。そして神様の体なる教会の一部ともなるのであります。

 イエス様の洗礼は、いわば私たちの洗礼の雛型とも言えましょう。神様に忠実に従うこと、この正しいことを行うことを示すための洗礼だったのであります。そして、この洗礼は、完全な神様であられる主イエス・キリストが完全な人となってくださったことが示されているのであります。イエス様が洗礼を受け、すぐ水の中から上がられたときに、天がイエスに向かって開いた、と言うのです。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた、と言います。御子イエス・キリストを御父自身が御子であることを証しされ、私の心に適う者であることを証明されたのであります。