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言が肉となった

言が肉となった
大坪章美

ヨハネによる福音書 1 章 1-14 節

福音書記者ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と語り出しています。「初めに」という言葉は、原始、即ち、一切のものの初めのことを意味します。この、「初めに」という言葉は、旧約聖書の創世記1:1節にも出てまいります。そこには、「初めに、神は、天地を創造された」と、記されています。神が言を発すると、そのようになります。神は、言によって、天地を創造されました。もうお分かりのように、ヨハネが記した、「初めに言があった」という「初めの時」は、創世記に著わされた、「初めに、神は天地を創造された」という、初めの時よりも更に前の状態を指しているのです。神が天地を創造する以前に、既にロゴスが存在していたのです。

ヨハネは、4節で、「言の内に命があった」と言っています。この、「命」とは、生きていることだけでなく、生きたものであらしめる、“真の神の命”を、意味しています。“ロゴス”こそ、“命”と“光”であって、神の創造の仲介をするにあたり、“救い”の実体を齎した方なのです。私達人間に対して、ロゴスが注いでくださった命は、肉体的な命以上の意味を持っていました。「光は暗闇の中で輝いている」とあります。ロゴス、即ち、神を啓示する言がこの世にあって輝くことに対して、闇が、反対しました。然し、光は今なお、輝いており、闇は決して光を消す事が出来なかったのです。そして、神は、必ず、この世に証人を送られます。今、この世が暗闇に包まれていた時、神様は、一人の使者をこの世に遣わされました。6節に、「神から遣わされた一人の人が居た。その名はヨハネである」と記されています。洗礼者ヨハネは、神様が定められたこの時に、この世の人々の心を、「命であり、光である」神の言に向けさせる、という使命を与えられていたのです。

そして、洗礼者ヨハネは、最初に、“受肉したロゴスである、キリスト・イエス”を人々に示したのでした。
この、キリスト・イエスのお地上のお働きを、誰よりも早く示したのが、洗礼者ヨハネでした。

確かに、このすべての物の造り主なるロゴスが世に来られた時、世の人々は、ロゴスを受け入れませんでした。ただ、その中で、ごく少数ですが、天から遣わされたロゴスを、受け入れた者たちが居たのです。著者ヨハネは、12節で言っています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた」と、記しています。

ロゴスを信じて受け入れた少数の人々は、神によって、新しく生まれた者なのです。そして、著者ヨハネは、「言は肉となって、私達の間に宿られた。私達は、その栄光を見た。それは、父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記しています。

これは、人間の考え得る領域をはるかに越えていました。ダビデの系図に連なる大工ヨセフと、乙女マリアとの間に、聖霊によって身籠って、誕生されたのです。旧約の長い歴史の中でも、「乙女が身ごもって男の子を産む」など、かつて聞いたことも無い、前代未聞の出来事でした。ところが、紀元前一世紀頃に完成したギリシャ語に翻訳された七十人訳聖書のイザヤ書7:14節には、なんと、「乙女が身ごもって男の子を産む」という表現に変わっていたのです。マリアの受胎は、神の約束によるものでした。

生まれた時から、洞窟に掘られた馬小屋の冷たい飼い葉桶に、布きれにくるまれて寝かされ、人々に迫害され、十字架に架けられたことは、イエス様が高められたことを意味します。復活して天に昇られたことは、この世から天に昇られ、父なる神の右の座にお着きになったことを意味します。これらのすべての栄光を、著者ヨハネは、目撃したのでした。

永遠のロゴスが一時、人間の間に宿られたという事は、肉の体を持たれたという事です。人間を救済する為に、罪と死は経験される必要がありました。キリスト・イエスは罪人を友とし、卑賤な者を愛されました。

ロゴスが地上に降られて、イエス・キリストが生まれて下さった日、クリスマスを心からお祝いしましょう。

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