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復活の証人

復活の証人
大坪章美

ルカによる福音書 24章 1-11節

婦人達は、紀元30年の3月か4月の週の初めの日、日曜日の明け方早く、未だ冷え込みの厳しい中を、準備した香料を持って墓に行ったとルカは記しています。
婦人たちは、安息日が始まる前に急いで埋葬されたイエス様のご遺体を、きちんと、適切に埋葬するために、ご遺体に香料を塗って、防腐措置を施そうと考えていたのでした。そして、なんとか、婦人たちは目指す墓に到着しました。すると、2節にありますように、「見ると、石が墓の脇に転がしてあり、中に入っても主イエスの遺体が見当たらなかった」と言うのです。4節には、「婦人たちは途方に暮れていた」と記されています。何故、婦人たちが途方に暮れていたかと申しますと、彼女たちの来た目的が果たせなくなってしまったからでした。婦人たちは、ただ、イエス様のご遺体に香料を塗るために、朝早く墓まで足を運んだのでした。

その時、「光り輝く衣を着た2人の人が、そばに現れた」と記されています。「何故、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と、御使いは言いました。しかし、御使いたちの、「イエス様は、復活なさったのだ」という言葉も、驚き、恐れ、狼狽するばかりの婦人たちには、理解されるものではありませんでした。何故ならば、御使いの告げる、「イエス様は復活なさったのだ」という言葉も、婦人たちの常識と経験からは、遠くかけ離れたものであったからです。御使いは、婦人たちに語りかけました、「未だ、ガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい。人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と話しかけたのです。8節には、「そこで、婦人たちは、イエスの言葉を思い出した」と記されております。理解できないままに記憶していた、イエス様のお言葉が、記憶に甦ってきたのです。然も今度は、はっきりとした意味を持って。

しかし、こうしてようやく、婦人たちは、イエス様のご受難予告の言葉を思い出して、また、イエス様の遺体が消えた空の墓を目の前にして、初めて、イエス様が予告された「三日目に復活することになっている」というお言葉が実現したことに気付いたのです。

“死人の復活”と、“死人の生き返り”とは、全く異なるものです。イエス様が、死人を生き返らせた出来事は、3回ありました。会堂司ヤイロの娘の場合も、ナインの町のやもめのひとり息子を生き返らせた時も、そして、マルタ、マリアの弟ラザロの場合も、また死ぬべき肉体に生き返ったに過ぎませんでした。

しかし、「復活」とは、二度と死なない霊的体になるのです。その身体には、肉や骨があり、食べ物も食べるのです。イエス様は、この復活をされたのでした。婦人たちの心の中に、希望が湧いてきました。イエス様の十字架上の死以来、打ちひしがれていた、絶望と悲しみの極限から、喜びへの方向転換でした。それは、神様が計画された、救いの御業の現れでありました。

こうして、婦人たちは、イエス・キリストの復活の証人となったのです。9節には、「そして、墓から帰って、11人と他の人、皆に一部始終を知らせた」と、記されています。しかし、驚いたことに、11人の弟子たちは、この話を、たわ言のように思ったと言うのです。逆説的な話になりますが、弟子たちは、イエス様の復活を全く期待していなかったのです。

イエス様が再三、あらかじめ予告された言葉にも係わらず、弟子たちは、イエス様が復活されるという希望を、全く持っていなかったことが分かるのです。つまり、イエス様の復活は、初代教会が創作した話ではありませんでした。むしろ、弟子たちは、婦人たちがもたらした証拠を耳にした時、それを疑わしくさえ思ったのです。復活の出来事は、ついに、弟子たちが望んでいなかったにも係わらず、否定し得ない現実になったのでした。イエス様の復活は、弟子たちの予期しないところにおいて起きました。人間の救いの歴史は、私たち人間の知性の及ばないところにおいて、神が先立って下さり、私たちに未知の世界を見せて下さるのです。イースターおめでとうございます。

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