過去の説教

祝福への道

祝福への道
大坪章美

マタイによる福音書13章44‐46節

申命記は、モーセの告別説教という形で記されています。申命記の申、すなわち訓読みで“申す”という文字は、「重ねる」、「繰り返す」という意味を表す文字です。従って、「申命」という言葉は、「重ねて命令する」という意味になります。モーセは、シナイの山で神とイスラエルの民が契約した十戒を再び、イスラエルの民と契約を交わす必要がありました。何故ならば、今、モーセの目の前に立っているイスラエルの民は、40年前に、シナイ山で契約を交わした時の人々とは、殆ど、異なっていたからなのです。40年前に行動を共にした古い世代の者たちは、みんな、荒れ野で死に絶え、エジプトから逃れてきた者のうち、当時20歳未満の者たちだけが残っていました。そして、これらの者たちに、今や、荒野の放浪の間に生まれたすべての者たちが加えられたのです。ですから、主なる神様との契約も、再度、交わす必要があったのです。

次に、モーセは、この、再び交わした契約の締結に条件を付けました。モーセは、11章26節で民に語りました、「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く」と言って、イスラエルの民の前に、祝福と呪いが置かれたのです。そして、どちらを選ぶかは、民の主体性に委ねられているのです。主の戒めに聞き従うならば祝福を、主の戒めに聞き従わないで異教の神々に従うならば呪いを与える、と言われたのです。その中間の道は認められませんでした。二者択一を迫られたのです。

時が移って、イエス様は、ガリラヤで伝道をしておられました。イエス様が、群集を後に残して家に入られると、弟子達がそばに寄ってきました。そこで、イエス様は、天の国の譬えを話し出されたのです。マタイによる福音書13:44節では、「天の国は、次のように譬えられる。畑に宝が隠されている。見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う」と話され、想像だにしなかったほど高価で価値あるものを見つけた人が、どのような態度を取るかを話し始められました。

彼は、貧しい労働者でしたが、黙って「宝物」だけを盗み取ることはしないで、正当に畑全体を買い取ることにしたのです。彼には、「宝物」そのものを買い取ることは出来ませんでしたが畑だけは、何とか買い取ることが出来たのです。ほかの所有物を全て売り払ってでも、この畑を買い取る者には、その人が富に向けていた一切のものをはるかに越えて、豊かに補充して下さるのです。そしてイエス様は、二つ目の譬えを話し出されます。「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」と話されました。天の国という宝は、人によって様々な方法で見つかります。この商人の場合は、それを仕事として、八方手を尽してやっと見つけました。商人は、持っている物全てを、この見つけた高価な真珠一個のために売り払ったのです。人間は、地上の生を終える時、お金も財産も、所有している物は全て取り去られます。然し天の国だけは取り去られることが無いのです。イエス様は天の国を、畑に隠された宝と、高価な真珠一つの譬えで語られました。そこで語られたことは、地上の死によっても取り去られることの無い、天の国の比類なき価値を知る者は、それを手に入れる喜びのあまり、他の全てを投げ打つのであるということでした。天の国を求めながら、なおこの世の栄誉や生き方に未練を残す者は、どちらも失ってしまうであろうとの教えであります。ここで私達は、モーセが主なる神様との契約を結ぶに当り、イスラエルの民の前に示した条件を思い起こします。「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く」とモーセは宣言しました。神様の言葉への従順を選んで祝福を与えられるのか、不従順に留まって呪いを与えられるかの選択でした。中間の道はありませんでした。イエス様が語られた天の国の条件も、二者択一です。天の国を受け継ぐと約束され、永遠の命を与えられた喜びに生きる私たちキリスト者は、天の国の希望に反する物に心を奪われることはないのです。

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