目を覚ましていなさい
梅田憲章
何事も愛をもって行いなさい。
コリントの信徒への手紙一16章10-18節
私たちは、自分が必要としていることをまずやろうとする。自分の力でこなせるものを前倒しにして、やり遂げようとする。それが普通である。しかしパウロは、手がける前に、「主が許してくだされば」と自分を選択の基準にしないことを主張する。
アポロはアレクサンドリア出身の雄弁家で、パウロの同労者、巡回教師です。コリント教会でも大活躍をして、「私はアポロ派に」と彼を慕うものが一派を形成するに至ったほど魅力的な伝道者です。コリント教会に人々、特に「アポロ党」員たちは、パウロにアポロのコリント再訪を要求し、「アポロが来ないのは、パウロが嫉妬して、邪魔をしているからではないか」と邪推するのでした。しかしアポロがコリントヘ行かないのは、アポロ自身の意志だったのです。このような時期にコリントヘ赴くことは、いっそうの混乱をきたすに違いないと考えて、バウロの意向を暖かく受けながらも、この際はコリントの招請に従わないことがよいことと判断したのでした。
さらに、パウロは、「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。」と勧めます。
目を覚ますとは、眠っていることの逆であり、なにかに心を奪われたり、陶酔したりするのではなく、集中し、悪魔の誘惑に負けず、追い求めつつ待つことです。 目を覚まし、しっかりと信仰にたつ、この二つは、共に攻撃に備える戦士に対する命令でした。
さらに男らしく、勇敢であるうえに、それを持続する実質的な強さが加えられる。しなやかで、強く、もろくはない。すぐに力尽きて・息切れしてしまうことはない。この歩みは、粗く、周りを傷つけやすい。そこで、パウロは「何事も愛をもって行いなさい。」と行動にやさしさを付け加えるのでした。コリントの分裂し抗争していることの原因は、愛の欠如のゆえと見抜いているのです。
今日の箇所ではアポロは、コリントに来て欲しいと要請されたのであるが、必要とされているなかに争いの芽があることを察知していくことを断念するのであった。
目を覚ましていなさい。何に対してであろうか。もし、自分に与えられた課題に目を覚ましているならば、目だけではなく、耳も、肌も緊張して、変化をつかもうとする。そうすると、何かが見えてくる、これまで見えていなかったことが見えてくるのです。新しい局面が現れ、今、どう生きるかが見えてくるのです。アポロのこの挙動は、そのことを如実にあらわしているのです。
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。ステファナはパウロから洗礼を受けました。そして、強いられてではなく、必要とされるがままに、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。彼は救いの上にたっている生活をしたのでしょう。
ところで、私たちは何に基づいて立っているのでしょうか。お金でしょうか、名誉でしょうか、安心でしょうか、家族でしょうか。どうもパウロは自らが自らの心を動かし、それを求め、それを基盤とみなす考えではなさそうです。外から私たちに迫ってくる、私たちが好むからと言うことではなく、いや好まない時でも、生き方の基盤を見直すように迫るのです。信仰に基づいたら、人生は変わります。しかし、それはどう行うかが変わるのであって、多くの場合は何を行うかは変わりません。給料のために働いていた仕事が、神様のために働くとなるからです。パウロは、変えられたその業を、しなやかに強く、粘り強くやりなさい。さらに、神に対する愛をもって行いなさい。勇気や力に愛を付け加えてごらんと語りかけるのです。